喜びは、常に愛しき者と共に。
起こされているのだけれど、揺すられているものだから、マグナは揺り籠であやされているような気持ちになって、また、夢の尻尾に手を伸ばす。中々声をかけられなくて、困ったような顔をして、だけど、もう起きなきゃダメですようって、惑いながら、レシィ、マグナの恋しい魂、すぐ側で、マグナの覚醒を待ち望んでいるのだ。マグナは目を閉じたまま、その命を腕の中へ引き寄せる。上げないようにしていた声を、呆気なく上げてしまって。
レシィは、身を硬くして。
「……ごしゅじんさまぁ、……あさですよぅ……」
シーツに吸い込まれそうな声で、そう言った。
ふっ、とマグナの唇が開き、微かな笑いが漏れた。
「レシィ。そんな声じゃ俺は起きないよ」
「……ご主人さまあ、朝ですよう……」
「うん、起きた。……おはよう、レシィ」
「おはようございます。……朝ですよ。ごはん、食べに行きましょう?」
マグナは、目を開く。陽光を空かした葉の色の髪、そして、折られた灰色の角が見える。手を解いて、レシィに顔を上げさせる。髪と同じ色の、柔らかい目が見上げる。起きてからもう三十分は経っている目をしていて、余り間近に見詰められるのが恥ずかしいらしくすぐに横に逸らしてしまう。
「もう、出来てるの?」
「いいえ、でも、あとパンを焼いて目玉焼き焼いたらすぐです」
「ふうん……、……そっか」
「はい、ですからご主人さま」
「寝よう」
「ごしゅ」
「寝よう、レシィ。……一緒に……、もうちょっとだけでいいんだ……」
「ご主人さまあ……」
もう、マグナは返答しなかった。レシィのことを軽く抱き締めたまま、その髪に鼻を埋めて嗅ぎながら、ずっと目を閉じていた。
困惑しながら、レシィは、「ご主人さま……」と、今一度マグナを呼ぶが、マグナは身じろぎもしない。
二度寝しちゃったら、朝ご飯が……。
レシィは、親愛なるご主人さまが、朝の二度寝の怠惰さを兄弟子にいつも説教をされるのを見ていて、説教をされると間違いなくご主人さまは嬉しくないのだということが判るから、出来るだけ怒られないようにしてあげよう、そうは思うのだが、ご主人さまのすることを、我儘と咎めるだけの勇気も根性も、この護衛獣にはないのだった。
「……レシィ」
マグナは、目を閉じたまま、静かに言った。
「はい」
レシィは、動かずに返事をする。
「起きてるね? ……寝たらダメだよ?」
「それは……、はい」
「うん、いい子だね」
「……はあ……」
レシィ、とマグナは溜め息と共に、名を呼ぶ。
「はい」
「レシィ……、レシィ、レシィ」
「……はい、ご主人さま」
「レシィ。……レシィ、可愛いな、レシィ。大好きだよ」
「……」
「俺は、レシィの召喚士でよかったよ。ああ……、レシィ、いい匂いだ、あったかい匂いがする、レシィの……あったかい匂い」
すんすん、音を立てて、緑の髪を甘く嗅がれる。昨日、その髪を洗ったのはもちろんマグナだ。優しい指で、柔らかく、気持ち良く、洗ってくれた。だから、不安もなく、レシィは主人のするに任せていた。
布団の中は、温かい。優しく抱きとめてくれる腕から体温がじんわりと伝わってくる。すぐにレシィは目を閉じたい誘惑に負ける。
「……ご主人さま……」
大好きだよの一言が、レシィをマグナの虜にする。
大好きなご主人さま、大好きなご主人さま。大好きなご主人さまに「大好きだよ」と言われる喜び。自分の弱さも強さも併せ呑んでそれでも「大好きだよ」と言葉をくれる、心をくれる。この人に一生ついていこう。
怖いことでも痛いことでも、レシィはマグナの為なら我慢する。そう誓うことが、レシィをマグナと結びつけ、またマグナもレシィに痛い思いも怖い思いもさせたくないと思うから、マグナがレシィと結びつく。彼らを単純な召喚士護衛獣の関係で片付けるのは愚かなことだ。逆に、必要以上の麗句で美化するのも違う。彼らは少しも特別なところのない恋人同士で、レシィの性質から言えば、もう既に結婚しているようなものだった。そしてそう指摘したならばマグナはにっこりと微笑みレシィを抱くだろう、レシィは真っ赤になって俯くだろう。……しかし恥ずかしがっては主人に悪いと、最後にはぎゅっとその手を握るだろう。
「……ってっ、ダメですよご主人さま、寝たらダメですってば!」
はっとして目を開ける。危ないところだった。既に瞼の裏のもう一枚の世界が現実味を帯び始めていたところ。夢の中でも温かな世界にいて主人と共に在ったことは、幸福な羞恥心を呼び覚ます。
「……んん」
「ご主人さま、……早く起きないとネスティさんに怒られちゃいますよう」
わかってる、ともごもご答える主人に、困った人だと思いながらも、こののんびりとした空気に自分がよく合っていることを知っているレシィだ。確かに真面目で勤勉なレシィ、それでも、ひなたぼっこも昼寝も好きで、主人はよくそれに付き合ってくれる。まどろみながら、「あったかいね」「あったかいですねえ」、そんな害のない言葉を交わしながら、知らない間に掌を重ねあって眠るのだ。
けれど、自分までどこまでもマイペースになってしまっては、主人は兄弟子に叱られるばかりだ。だから、バランスを取る為に、引き締めるところは引き締めなきゃ。
かくしてレシィは起き上がり、マグナの腕を引っ張る。
「ご主人さま、ご主人さまってば……。起きなきゃ怒られちゃいますよ。僕ネスティさんにお説教されて落ち込んでるご主人さま見たくないです」
マグナは唸る。
「ほら、ご主人さま、起、き、ま、す、よ……っ」
ぐいい、と腕で上体を引っ張り上げる。しかし、マグナにも相応な体重があるのであって、レシィはそう強い力の持ち主ではないから、大仕事になる。マグナはレシィが渾身の力で引っ張り起しているのに、気付いていながら、内心で微笑みながら、目を閉じたままだ。はぁはぁ肩で息するレシィは、上体を起してもまだ目を閉じたままの主人に、困惑する。本当にまだ寝ているんだと思い込んで。
「もう……ご主人さまあ……」
こういうときのレシィに選択肢がないわけではない。一番効果的なのは何か、判っている。ネスティを連れてくることだ。あの兄弟子には、マグナも逆らえない。自分は甘い、けれど、あのひとは厳しい。マグナも普通の人間らしく、優しいものを求めるわけだ。布団がレシィなら、ネスティは冷たい水と同じだ。その目をこじ開けるには一番だろう。
しかし、出来るならそれを択びたくないレシィだ。彼の主人が、レシィの傷つくことのないようにと考えて生きているのと同様、レシィもまた、主人の心がささくれ立ったりへこんだりしないように考えているから。それは甘すぎる考かもしれない、ネスティの方が本当なのかもしれない、けれど、本当でなくても主人と自分が幸せになる道を探し、結果がついてくれば、「本当」が一つぎりではないことを証明できる気でいた。
「……ご主人さま……、どうしたら起きてくれるんですか、もう……」
「お前がキスしてくれたらちゃんと起きる」
「も、もう起きてるんじゃないですかあ」
「まだ起きてないよ。でも、レシィが優しくキスしてくれたら起きてあげてもいいな」
レシィは溜め息を吐く。
「おはようのキスが欲しいよ」
目を閉じたままでも、マグナは確実にレシィの手を握ることが出来た。水仕事で、少しかさかさするレシィの手。
「……ご主人さま……」
待っているマグナが判る。レシィはぎゅっと目を閉じて、かすかに震えながら。
唇の重なった瞬間、静電気のようにレシィの唇へ弾ける何か。
「……おはよう、レシィ」
マグナの目が開かれる。嬉しそうに、優しく微笑んで、唇を離したレシィをとらえ、追い打つ。
「……おはよう、ございます……」
頬を赤らめて、レシィは、握られた手の中をムズムズさせた。マグナは、このいとおしさの塊のような命が、朝からこんな風に自分の為に存在してくれる幸いに、拝むような心持になる。この日々に幾度感謝したところで足りない。しかし足りなくてもレシィはいてくれるのだと、確かな喜びが自分に降り注ぐことに、もうどうしたらいいのか判らない。
「起きるよ」
「……はい、そうしてください。着替えは出しておきましたから……。僕はパン焼いて目玉焼き作ってきますから、ちゃんと起きてきてくださいね?」
「うん、わかってる」
最後にもう一度、唇を重ねあう。唇に色が付くわけでもないのに、レシィは階段を降りて、ネスティに「あの馬鹿者は起きたか」と問われ答え、台所に入るまでの間、ずっと唇に手の甲を当てていた。そこが、静かに熱い。