側にいる意味

 甘いものを食べると、どうして笑顔になってしまうのだろう。チョコレート、カスタードクリームにマロンクリーム、いちご、パッフェルのケーキが並んだテーブル。凄まじいスピードでケーキはギブソンとルウの胃袋に納まっていく。お二人ともあんなに細い体をしてるのに、いったいどこに入っていくんだろう。ダイエット中と言うミモザは恨めしげに砂糖抜きの紅茶を啜り、レシィは一つだけ頂いた。

「あー……あっ、おいしかったっ」

 ルウが上機嫌な声を出す。ギブソンも満足げに微笑んだ。所狭しと並んでいた数多の皿は、今は一つところに重ねられていて、その標高は決して低くはない。

 一切れだけとは言え、いちごのショートケーキを食べきって、それで十分に満足を得ているレシィからしたら、ルウとギブソンの、食欲とも違う……、この甘味への欲は、ただただ驚嘆するばかりだ。

「すまなかったね、レシィ。お遣いのついでに片付けるのを手伝わせてしまって……」

「いえ……、ごちそうさまでした、おいしかったです」

 でも僕、一個しかいただいてませんよ?

 こういうお得意様がいるから、パッフェルという有能なバイトをケーキ屋の主人は手放さないのだろう。完全歩合制らしいバイト料であるからして、パッフェルの懐も潤う。幸せな循環と言っていい。

 ひとりでおつかいも、たまにはいいことがある。ギブソンから本を預かり、レシィはマグナの部屋へ、急いで帰った。心配をかけてしまっただろうか、それとも、あんまり遅いから怒っているだろうか。半分程の不安を覚えつつ、レシィは主人の部屋の扉を開けた。

「ただいま戻りました、ご主人さま。遅くなってすみませんでした」

 マグナは、怒ってはいなかった。レシィを見て、にっこり微笑む。座っていた椅子からわざわざ立ち上がり、「ご苦労様、助かったよ」と労う。頭を撫でられて、レシィはちゃんと仕事を仕切った誇らしさが胸に生まれる。

「……美味しそうな匂いがするな」

「は、はい。ギブソンさんにケーキをごちそうになりました」

「パッフェルさんの?そっか、美味しかっただろ。よかったね」

 なでなでなで、優しくて大きな掌が一頻りレシィの頭を撫でたら、不意に離れ、憂鬱そうな顔になって再び机に戻る。

「……まだ、かかりそうなんですか?」

 広げられたままのノート、夥しい数の文字。マグナの文字は特徴的で、レシィは一度見ただけで他の誰の字とも違う主人の字を覚えた。さっきより大分進んでいる、それでも、

「そうだなあ……」

 背中が苦笑いする。

「まだ……、うん、当分かかっちゃいそうだ。今夜は徹夜かなあ……」

「僕、何かお手伝いできることありませんか?」

 マグナは首を振る。机の上に置いた、ギブソンの分厚い本に掌を置いて、

「これがあるだけで大分違うはずだから。十分だよ」

 考えても仕方のないことだけれど、要するに考える必要もないことなのだろうけれど、「ご主人さまのお役に立ちたい」強い願望があるがゆえに、自分には到底手の届かないようなことでも、助けられる余地を探してしまう。あまり足掻いても主人が困るだけということも判りつつ、こうして頬杖を付いて机に向かっている後ろ姿を見て、肩を落す。

 せめて、こうして側にいようと決める。ペンをしばらく走らせる音、それが滞り、抹消線を引く苛立ったような音がして、しばらく沈黙。頁を行きつ戻りつ。細く長い溜め息。何も出来ないけれど、何かあったらすぐに呼んで下さいと、ただ側にいることだけはし続けよう。

 ドアノブが捻られる音で、レシィは飛び起きる。窓外は既に暗くなっている、自分には毛布がかけられている。

「……進んでいるか」

 ネスティが顔を覗かせた。マグナはペンをおいて、苦笑する。レシィは眠ってしまった自分を恥じて、小さくなる。

「君は何をしているんだ……?」

 眼鏡の奥の目が、レシィを見る。レシィは竦みあがって、口篭もった。マグナは微笑んで、

「お手伝いしてくれてるんだよ」

 と。ネスティは特に咎めたりすることなく、「そうか」と頷いたが、

「そろそろ夕飯の支度をはじめてくれないか」

 と言って、出て行った。はっとして立ち上がる。

「うん……、ご飯ができるまでには、とりあえず一つきりのいいところまで行けそうだ。頼んだよ」

 レシィは何だかとても恥ずかしくなって、すみません、と謝って、こそこそと部屋を出た。食卓には、ネスティ一人が座っている。レシィをちらりと見て、

「マグナが君に勉強の手助けを頼むと思うか?」

 そう、独りごとのように呟く。心がひんやりと冷たくなる。ネスティは、レシィに目を向けず、

「君に出来ることは他にあるだろう……、あいつもそっちの方を期待しているはずだ」

 と言い放つ。そうだ、と思う。

「……はい、頑張ります」

 目がしっかりと冴えてきた。

 僕に出来ることは多くなくても、そのどれか一つでもご主人さまの幸せと喜びに繋がっているのなら、どうしてそれを一生懸命択ばない。

 俎板を出して、野菜を切り始めた。リズミカルな打楽器の音になる。

 

 

 

 

 実際、マグナは夕食後、自分に鞭を入れなおしたように、ペースを上げた。温かいお茶を淹れて上がっていったら、入ってきたレシィに気付かぬほど集中して、ノートを埋めている。

「お疲れさまです」

 ようやく気付き、顔を上げる。ありがとうと優しい微笑を浮かべ、マグカップを受け取る。

「先が見えてきたよ」

「お風呂、沸いてますよ。どうしますか?」

 んー、と大きく伸びをする。一口啜ってから、

「じゃあ……入ろうか。気分転換になるしな。背中流してくれよ」

 レシィはにっこり微笑む。

 僕には僕の出来ることがある、求められていることがある、何よりもの喜び、幸せ。そして、それはご主人さまの喜び幸せと繋がることが出来る。

 温めの湯で、主人の広い背中を、髪を洗う。綺麗になったら、今度は主人の指が髪の間を泳ぐ。レシィは身体がとても清潔になったように思えて、嬉しい。

「気持ちいいなあ」

 マグナは上機嫌の声を出す。自分のヘソの前で組まれた手も嬉しげだ。穏やかな時間に、レシィもマグナの胸に背中を委ねることを許され、落ち着いた気分になる。手が解かれたと思ったら、湿っぽい髪を撫ぜられる。頬を撫ぜられる。どうしてもレシィの顔は綻ぶ。

「レシィの、こことさ」

 頬のサイドに降りる翠緑の髪を、マグナの指が摘んだ。

「俺の髪のここ……、似てるよな」

 つまらないことでも拾い上げて喜んでいる。そんなマグナに近い感覚を、レシィ持っていた。微笑んでいるマグナの声を聞いて、それがそのまま自分の喜びにもなる。

「僕、嬉しいです。小さなところでも、ご主人さまとおそろいで」

「お前がそう言ってくれると俺も嬉しいよ。……俺、本気でお前のこと好きだからさ、大好きだからさ。お前が俺の言葉で嬉しいって言ってくれるの、涙でそうなくらい嬉しいよ」

 ぎゅっと抱きしめられて、胸がちくちくする。涙でそうなのは僕も同じですと、言う替わりに、マグナの腕に手を置いた。

「レシィ」

 優しい声だ。

 ルーズなところがある、面倒臭がり、決して勤勉な人ではない。いつもネスティに説教ばかりされている。直さなくてはならない点は山のようにある。それでも。

 僕の生きている理由はこの人だ。

「大好きだよ」

 頬にキスをされた。危うくしゃくりあげて泣きそうになって、慌てて唾を飲み込んだ。

「出ましょう、ご主人さま。のぼせちゃいますよ」

 本当はいつまでだってこうして入っていたい、嬉しい言葉をたくさん貰いたい。けれど、立ち上がる。まだ課題が終わった訳ではないのだし。甘いマグナを、ネスティとは異なったやり方で引き締めるのも、自分が出来ることの一つだと、レシィは考える。マグナは、微笑みの置き場所を見失ったような顔でレシィを見上げて、

「……課題、頑張る」

「……はい」

「……あのさ……、終わったら……。俺、レシィとえっちしたいな」

「え……」

 マグナは、照れ臭さを隠すように、笑った。

「ダメかな」

 レシィは、湯の中にまた座り、ぴったりとマグナに抱きついた。

「大好きです、ご主人さま……」

 耳まで真っ赤になっても、嬉しくて、レシィは本当に泣きそうになっている自分が、恥ずかしいくらい、嬉しい。


back