手がかじかまなくなったので、レシィは春を知る。恐らくは他の誰よりも水に触れる機会の多い彼の手は、彼が決してそれを口にはしないから「事実」として顕れはしないけれど、冬の間かさかさに乾いている。それを知るのは、またそれを聞きもしないで、ただレシィの手に触れる機会の多い恋人であるマグナだけだ。
レシィの手が少しずつ滑らかになっていくことで、マグナは春を知る。
「やわらかい」
主人は微笑んで言う。家の仕事を終えて、これからレシィがすべきは、妻としての務めである。
レシィの誇らしい意識レベルでは、彼はマグナの妻、マグナの言い方に沿えば「俺の可愛い奥さん」であって、それはレシィの性別や周囲の視線を全く問題にはしない関係性として成立している。少なくともその行為――冷たい水で洗濯をし、部屋を隅々まで綺麗にし、美味しいご飯を作り、夜は床を共にする――が続く日々のリズムこそが、証明していた。
レシィの手を飽きず触る主人は、レシィの膝に頭を置いている。
「レシィは俺の奥さんだもん」と誰彼構わず言う。「君は馬鹿だ」と言われても尚言う。ちっとも構わない。馬鹿で結構だった。馬鹿でも愛される馬鹿なのだから。「ご主人さまは馬鹿なんかじゃないですよ」と言ってくれる存在がひとりだけでもいるから。
そんな主人が「主人」であるから、穏やかな日々の幸せに、安寧に、レシィはただ感謝をする。自分のことを役立たずのメトラルではなく一人の、男でも「妻」として受け入れてもらえて、「幸せです」とレシィは言う。
「でも僕男……」「寧ろ男で居てくれてよかったかな。だって俺の気持ちいいところはレシィも気持ちいいって判るし」、そんなことを言った。じっとレシィの顔を見上げながら、不意に、そういう場所を触る。
「……ご主人さま」
「一日一回じゃ足りないんだ」
僕もです、なんて言ったら大変だな、そう思って、レシィは口をつぐんだ。
だからこそ、しばしば朝夜だけでなく、この午後三時に求める主人に文句一つ言わない。身体は多少疲れていても、丁寧に答えるのだ。
マグナが起き上がり、その場所に手を乗せたまま、キスをしてくる。レシィはただ、目を閉じてそれに応ずる。マグナが舌を求めてきたなら、すんなりと口を開く。そういう時間は呆気なく始まる。
「レシィ」
耳に、少し焦ったような主人の声。そんなに僕が欲しいですかと、訊ねればうんと頷くに決まっている、そう判る、自分は罪深い。
二人の日々が固い地盤の上に成り立ち、これからもずっと続くと二人して信じられるのは、二人が自分たちを「夫婦」と定義して疑わないからだ。「恋人」を超越するついでに性別も超越して、夫婦としての確固たる地位を築いているからだ。借間とは言え、れっきとした自分たちの空間があり、レシィはせっせと妻としての仕事に打ち込み、マグナはマグナで、まだ年若いというか、半人前であるがゆえに召喚士としての賃金労働も無く反省文の格闘の日々だが、いつか自分の手で立派にレシィを養うのだと心に決めて、牛歩ながら一歩一歩精進を目指す。
「レシィ……、入れていい?」
「は……い、っ、入れて、下さい」
レシィは家事をしている姿がすごく可愛いと信じる主人だが、それでもこうして自分を受け入れる姿には敵わないなどと考える。白い体、その裸を、マグナの為だけに晒す。そしてレシィも、僕なんかの身体をこんな風に優しく扱う主人に心から感謝する。
夫婦としての証と、二人で思っている。習慣となる日々は、いかにリズミカルになるかにかかっているだろう。朝起きて、時にセックスをし、主にレシィの作った朝食を食べ、マグナは勉強をしレシィは洗濯をし、主にレシィの作った昼食を食べ、レシィは掃除をしマグナは戦闘訓練をし、二人でこんな風に抱き合い、夜は主にレシィの作った夕食を食べ、一緒に入浴し、そして同じ布団で眠り、繋がり合う。六拍子で定着したリズムだから、そう簡単には揺らがない。
「んっ、や……っ、う、はぁっ、うぁっ……!」
レシィ、可愛いレシィ、大好き、愛してる、呟きながら、まだ春、でも、薄っすらと汗をかきながら、マグナはレシィを抱く。レシィはいつものように神々しい気持ちになって主人を見る。ここに存在する一対の肉体が語る愛のリズムだ。
「……大っ……、好き、レシィ」
永遠に膨らむことの無い、少年の腹部に、それでも優しく手を置いて、撫でながら、マグナは言った。鮮やかな血が中に流れ、自分の部分と一つに溶け合い、そこにとりあえず形なくともまた新しい感情が生まれるのであれば、男同士でも何ら問題はないように思う、そんな二人組だ。
「……ご主人さま、風邪ひいちゃいますよ?」
裸のまま、身体を撫ぜてくれる主人が嬉しくとも、そう言うのが妻の役目と信じて言う。臍のあたりを三週してから、マグナは身を起こし、レシィに覆い被さった。
「……あったかい?」
「はい、あったかいです……、って、そういう事じゃなくてですね」
そう言われることが判っていたから、マグナは少しだけ笑う。笑って、レシィの前髪をどかしてキスをする。そして起き上がり、抱き起こし、自分の頬にキスをさせる。
「な。服着ておかないと、またレシィが欲しくなっちゃう」
そう言ってもらえるのは幸せ以外のなにものでもない。ただ、それは必要に応じて。とりあえずレシィがマグナを喜ばせようと思ったとき、そのやりかたはただ裸で横たわるだけではない。綺麗な部屋で、美味しい食事で、同じようにマグナを微笑ますことが出来るのだ。
きっちり上下着て、レシィは「あとちょっとだけ」と請うマグナに応えて、腕の中に収まる。しっかりした力で抱かれ、溜め息が漏れる。そのまま二分もじっとして、「ありがとう」、ようやく解放される。
「美味しいご飯、楽しみにしてるよ」
「はい。ご主人さまもお勉強頑張って下さいね」
同じ屋根の下、だけど、まるで働きに出るみたいに。しかしそう考えると僕が旦那様……、それはちょっと違うけれどと、レシィは思いながら、キッチンに入る。大好きな人のために何かをする時の顔は、凛々しいところなんてまるでない自分でも、きっと普段より少しは見られたものだろうと、レシィも考える。
だって僕に「好き」って言ってくださるご主人さまの顔は、他の誰より格好いい。
「ご機嫌だな」
ギブソンが台所を覗き込む。
「わかりますか?」
「それは、あれだけ鼻歌を奏でていれば。……何かいいことでも?」
「いえ、別に、特には。でも、何も無くても、僕は幸せです」
ギブソンは、何故レシィが幸せかを良く知っている。ミモザも、ネスティもアメルも、時々やって来る仲の悪い双子の恋人も知っている。彼らの幸せを見ていて、便乗して幸せになっているつもりの人々だ。
「お互いさまだな」
ギブソンは独り言のようにそう言う。幸福の事情を詳しく考えるよりも貪欲に、その在り処を探して拾ってきて恋人に持たせて、その手の中を二人で覗き込むようなやり方こそが賢いと、ギブソンのような大人も知っている。