a hot spring hotel
きっかけは一ヶ月ほど前に放映されたとあるTV番組だった。
そう、例えるならばTV○京系列で夜7時からの一昔前に流行っていた所謂落ち目のタレントがレポーターに使った、一言で言えば――――旅行番組、だった。
その日、御剣はいつもの如く当然のような顔をして成歩堂法律事務所のソファで優雅に紅茶を飲んでいた。
事務所の主である成歩堂はといえば、特にコレと言った仕事もなく(これがいつも通りなのだというのが悲しいところなのだが。)真宵や春美と共にTVを見ていた。その日は真宵たちがいつも見ている特撮ヒーローものの番組やドラマ、アニメなどは放映される日ではなく、なんとなしに見ていたのが件の旅行番組だった。
内容は、よくある温泉特集。
「あー、いいなぁここ。家族風呂だって!これなら他のお客さんたちを気にしないで温泉で泳げそう…。」
最初に呟いたのは真宵だった。
その時に事務所の古いブラウン管TVに映っていたのは東京からそう遠くはない温泉地の家族風呂、というもの。部屋のすぐ外の庭にあるソレは大浴場程の広さはないもののちょっと泳ぐには十分の広さで、それが真宵には気に入ったらしい。
「ねぇ、成歩堂くん…。」
「駄目だよ。」
間髪入れずに帰ってきた答え。真宵の問いかけを最後まで聞く暇すらなく。
「まだ全部言ってないのにぃ〜!」
「聞かなくても判るよ、駄目ったら駄目。大体そんなお金どこにもないよ、お金があったら僕だって行きたいよ。」
尤もな理由を挙げられれば真宵にも何も言うことは出来ず、話はそこで立ち消えになり後は大人しくTVを見ていた。それが一ヶ月前の出来事。
******
「なるほどぉおおおおおおおおおおお!」
さした仕事依頼もなく、ぼんやりとTVを眺めていると、突然に事務所の扉がバキッと大きな音を立てて蹴破られた。犯人は疑うまでもなく、御剣だ。
成歩堂は大きく溜息をつき、取り合えず御剣を(一応)出迎える。何分、御剣に事務所の扉を蹴破られたのは初めてではなく、そのたびに修理代は検事局へと請求しているのですっかり慣れてしまったらしい。…嬉しくはないが。
「…で?今日は一体何の用だ?」
嫌そうな顔で用件を尋ねると、御剣は嬉しそうなキラキラと輝いた、何を企んでいるのか判らない瞳で
「何も言わずにコレを受け取ってくれ!」
と一気に捲くし立てて、一通の茶封筒を差し出した。…この展開はそう、確かエイプリルフールのときと同じだと不吉なものを感じたがとにかく茶封筒を受け取る。何事も確認が肝心だ。
……………………。
中から出てきたのは新幹線の往復券(グリーン車)と旅館の予約チケット。
「君が行きたがっていた温泉のチケットだ!予約を取るのにちょっと苦労したんだが、仕事も片付けたし今週末行こう。」
「…はい?」
「この間TV番組で見ていた温泉旅館だ。行きたいと言っていただろう?」
「いやいやいやいや!」
確かに真宵に対して『お金があったら〜』とは言ったけれどあれはあくまで説得の上での、そう言葉のあやようなものでどこにあんな台詞を本気にする馬鹿がいるのだろうかと思ったが、その馬鹿が今この瞬間己の目の前にいるんだと思い、口から出掛かった言葉をなんとか飲み込む。
成歩堂が呆然としている間にも御剣はうきうきと脳内で勝手に組み立てたプランを説明し始めた。
が、しかし。
「近場なら土日の一泊でもいいかと思ったのだが、金曜の夜から出発すればゆっくり出来るだろうと思って二泊にしたよ。ここは料理が上手いと評判で…。」
「僕、仕事あるよ。今週末。」
容赦なく冷たく言い捨てた成歩堂の一言で、それは止まった。
「な、なんだと…?仕事…?」
「そう、一週間前に急に依頼が入ったからね。」
「わ、私はそんなこと聞いていないぞ!」
「当然じゃないか、担当検事は君じゃないらしいし、君はこの二週間事務所に来ていなかったんだから。」
そう、この二週間御剣は事務所に現れなかったのだ。『仕事が忙しい、すまないが顔を出せそうにない。』といったメールは頼みもしないのに毎日のように携帯に入ったが、言葉通りに御剣は姿を現さずおかげで成歩堂はこの二週間、実に平和で静かな日々を過ごすことが出来たのだが。
「悪いけど、僕は行かないから。」
《行けない》ではなく、《行かない》と言うあたり、成歩堂の意思が伝わってもよさそうなものだが、この男にそんなニュアンスが伝わるわけもない。
「家族風呂のある部屋を予約したのだぞ?温泉だぞ?」
「行かない。」
「家族風呂ならば!周囲を気にすることなく温泉で愛し合えるのだぞ?!」
「誰が行くか!この変態検事ぃいいいいいいいいい!」
…成歩堂の叫び声と共に、御剣が殴り倒されたのは言うまでもない。右から抉るように繰り出された見事なストレートが、見事なまでに美的に御剣の顔面にめり込み、そのまま三段フリルをひらひらさせて御剣は意識を無くした。合掌。
週末、当然ながら成歩堂の姿は地方裁判所法廷にあり、どんな手段を用いたのかは知らないがその法廷の検事は目の回りが青紫色に変色し、頬が見事にはれ上がった御剣だった。
ちなみに、温泉はどうなったのかといえばいつも成歩堂の隣で裁判に参加している真宵と春美が不在だったという事実が全てを物語っていた。あしからず。
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