かみさま、おねがいですから。

そう願うことをやめたのはいつだったろう。
願うことも、夢見ることすらも。
自分には決して許されないのだと思い知って、そのときに願うことをやめた。
自分にはもう相応しくないのだと諦めることを選んだ。そこが限界だったのだ。手放すことを選べなくて、それでも願い続けることもできなかった。
それが限界で、弱さだった。

向き合うことも、願うことも。

軽蔑と侮蔑に晒されることに耐え切れなくて逃げたのだ。
卑怯な自分は、謝罪することもないままに全てを置き去りにして逃げ出したのだ。
なんて卑怯んなんだろう。自分で自分の醜悪さに眩暈がしそうだ。そんな自分と向き合うことも出来ないままに。
自分は逃げ出したのだ。










たしかなこと









「廉!」
「修ちゃん…」

年末の練習は30日まで。年明けの練習は4日から。
年末年始のバイトは割がいいし、シガポも家庭があるから。そんな理由で練習は午前中までで、学校の前まで迎えに来ていた親の車に乗ってそのまま群馬へ帰ってきた。連日の練習の疲れのせいか、車が走り出してすぐに眠ってしまったので気がつけば車は本家の前で、母親に揺り起こされて寝ぼけ眼で車を降りるとすぐ目の前に叶がいた。

「おかえり!」
「う、あ、ただい、ま」

まさか着いてそうそう逢えるとは思っていなくって、思わず声が裏返ってしまう。

「なんだお前、練習の後そのまま来たのか?」
「あ、うん。着替える時間、なくって」

逢うのは本当に久しぶりだ。
5月の練習試合以来、だろう。親について何度か群馬にはやってきていたけれど、お互い野球部で滅多にない休みが合致することはほぼ無いに等しい。電話とメールを交わすのみで顔を合わせるのは本当に久しぶりで、目を見るのがなんだかとても照れくさい。

「あ、おれ…着替えてくる、から…」
「着替えたらうち来いよ、話したいこといっぱいあるんだ!」

昔のままの笑顔の叶がきらきらと輝いて見えた。
じわじわと嬉しさが心の奥底から湧き上がってくる。本当は、不安だった。叶に限ってそんなことない、大丈夫だ。わかっていたけれど、嫌な顔をされたらどうしよう、なんて。考え出したら止まらなくて、不安はどんどん広がって。久しぶりに逢えるという楽しみ以上に不安の方が大きかった。
…結局そんな不安は杞憂だったけれど。
中学時代の傷はやっぱりそんなに簡単に消え去ってはくれなくて。
きっと薄っすらとでも、一生傷は残るんだろう。
傷付いたのは廉だけではないけれど。

でもきっとそれでいい。

中学時代の出来事を、叶に別れを告げたあの雪の日のことを思い出すとちくちくと胸が痛む。

けれど。

5月のあの日。
分かり合えたあの日を思い出せばそんな痛みも、傷も。全てが大事になるのだ。
笑顔で、迎えてくれた。たった、それだけ。けれどそれだけのことがこんなにも嬉しい。
ふへ、と顔がにやけてしまう。

「廉、早くシャワー浴びて着替えちゃいなさい。でないとお祖父ちゃんに挨拶出来ないでしょう」
「おかーさん、ね、挨拶したら修ちゃんのとこいっていい?」
「ちゃんと挨拶してからね」
「うん!」

自然と浮き足立ってしまう。

嬉しい、嬉しい、嬉しい。
来てよかった。
心からそう思った。





*****





自分はちゃんと笑えたていただろうか。

玄関に入るなり、力が抜けて床に座り込んでしまった。こんなにも弱気になっていたことを今更ながらに思い知らされてみっともない、と思った。
自分がこんなに弱いなんて知らなかった。

離れてから初めて気付いた。

どれだけ廉に依存していたかを、初めて知ったのだ。常に隣にいると思って廉がいなくなって、初めて。

一緒にいたら傷付けあうだけでお互いに駄目になってしまう。それがわかっていたから、渋々でも納得した。否、納得するふりをしていたんだ。頭では納得していても感情がついていかなかった。

その事実に気付いたのは5月のあの日。

叶が初めて見る笑顔で戻らないと言った廉が遠いと思った。けれど中学時代よりずっと近くに感じた。
わかり合うことが出来ればまた一緒に、なんて本気でそう思っていた。けれど違ったんだと。あの笑顔で気付かされた。
互いに選んだ道は別々で、その道はわかれて混じりあうことはもうない。
だけど、それでよかったのだと。あの笑顔を見て初めて気付いた。そして夏の初戦の後のメールでやっぱりそれでよかったと再認識した。

5月のあの日。

わかり合えてよかった。でなければきっと、今はないはずだから。

時折交わすメールと電話。
互いにマメな性格ではないし、普段は練習で忙しいから、それは本当に時たまで。昔みたいな呼び名で、それでも少しだけ残るぎこちなさはどうしようもなくて。
だから直接逢うことがほんの少しだけ怖かった。
嬉しい気持ちがあるのは確か。…けれど本当に少しだけ。ほんの少しだけ怖かった。
拒絶されたらどうしよう、なんて。
こんな臆病な自分が格好悪くて、廉にそうと悟られないように普段通りに振舞えるかわからなくて怖かった。

だけど廉が笑ってくれたから。

おどおどした態度は変わらなくてそれはちょっとだけ哀しかったけれど。だけど笑ってくれたから。
それがなんだか、すごく嬉しかったんだ。
なにもかもが昔どおりに戻れるわけじゃない。だけど、笑ってくれた。それだけでこんなに穏やかな気持ちになれるのだ。
同じチームで同じユニフォームを着て一緒に野球をすることは、きっともう二度とないんだろう。だけど、これでよかったのだ。


夜になってようやく廉が尋ねてきた。三橋の家のお祖父さんは三星学園の理事長で、昔っから廉を可愛がっていたから一回捕まると中々放してくれないのだ。予想はしていたけど。 おそらく走ってやってきたせいか、それもとも風呂上りだったせいなのか頬を真っ赤で、そこで茶色いくせっ毛の先からぽたぽたと俄かに水滴が落ちているのに気付く。

「廉、髪濡れてる。ちゃんと乾かさないと風邪ひくだろー」
「う、だって、早く逢いたかったし…」

叱られた子供みたいに、しゅんと肩を落としてぼそぼそと呟くのが可愛いなぁ、とか可愛いなんて言ったらきっとひどい!ってべそべそ泣くんだろうなぁと思ってなんだか楽しい。
ちょいちょいと手招きして、ベッドの前にちょこんと座らせる。洗面所からドライヤーを持ってくると廉は叶の意図を理解したのか恥ずかしそうに俯いて、それでも大人しく座ったまま。ドライヤーで乾かしながら触れる髪の毛は相変わらずふわふわで柔らかくて、なんだかとても懐かしい。そういえば、お泊りするたびによくこんなふうにしてやってたなぁなんて思い出す。

「相変わらずくせっ毛なのな」
「う、ん…でも修ちゃんだって」
「俺の天パだからくせっ毛とは違うだろ〜」

交わす会話は取り留めないのない、些細なことだ。逢う前は話したいことも聞きたいこともいっぱいあったはずなのに、いざ顔を見たら何もかもが吹き飛んでしまった。

「…なぁ、廉」
「うん?」
「学校、楽しいか?」
「たのしい、よ!」

きらきらした目で、クラスメイトや野球部の仲間たち、偶然再会した幼なじみとのことを話す廉は本当に。本当に嬉しそうだった。

「野球、楽しいか?」
「うん!」
「そっか、よかったな」



野球が楽しい。

即答だった。

野球が楽しい。中学時代とは違う、楽しい野球が出来るのだ。

ずっと、ずっと聞きたかった答えを聞けた。
なんだか、無性に嬉しくて嬉しくて涙が零れそうになる。
野球が大好きだから。投げるのが大好きだから。だから廉はずっと、誰より努力をしてきて、けれど三星ではその努力が認められることはなくて。大好きな野球が廉を苦しめていた。
その事実は叶にとっても苦しかった。
ただ、お互いに野球が、投げることが好きなだけなのに。どうしようもなく好きだった、それだけだったはずなのに。大好きな野球が廉を苦しめて、叶を苦しめていた。

だけど今は。

笑顔で野球が楽しいと言う廉が愛しくて、嬉しくて、離れてしまったのは寂しいけれど本当によかったと心からそう思ったんだ。









*****








野球が楽しい、そう言ったら叶が笑ってくれた。
それが、何だか、無性に嬉しかった。今ならきっと、自然に言える。

「修ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」

そう言ったら、驚いたみたいに目を見開いてその後になんで?と聞いてきた。

「夏大のとき、メールで言った、けど…。ホントは、直接言いたかった、んだ」

ずっとずっと。
逢って、自分の口から直接伝えたかった。

「あのとき、修ちゃんがやめるなって言ってくれたから」

あの雪の日。
泣きながら、三星から去ると伝えたあの日。

「あのとき、修ちゃんがやめるなって言ってくれなかったら…おれ、きっと野球やめてた。ずっと逃げたままだった、と思う」

実際に、そのつもりだった。
野球をやめるつもりだった。傷付くのが怖くて、何も解決しないまま逃げるつもりだった。卑怯だということはわかってはいたけれど、傷付くことが怖かった。あれ以上傷付きたくなかった。

「今があるのも、野球が楽しいって思えたのも全部、全部が修ちゃんのおかげ、だから」

だからずっと言いたかった。

「ありが、とう」
「…っ」
「修ちゃん?」

笑顔で、お礼を言えた。…上手く笑えていたか自信はないけれど。

「…どうして泣いてるの?」
「なんでだろ…」
「ど、どっか痛い?それともおれ、なんかした?」

不安になっておろおろとしてしまう。

「違う、廉が悪いんじゃない」
「で、でも」
「痛いわけでも、哀しいわけでもないから」
「じゃ、じゃあなんで…?」
「嬉しいから、かなぁ…」

そう言われて、ますます訳がわからずに頭の中で?マークを飛ばす。

「廉が野球やめないでくれてよかった」

泣きながら、それでも叶は笑いながら。

「一緒のチームでプレー出来なくても、野球を続けてる限り俺らはずっと同じ場所にいられるだろ?そう思ったらさ、なんか、すげぇ嬉しかったんだ」

野球を続けている限り、同じ場所で同じトコロを目指して、共に野球を出来る。

「野球を続けてくれてありがとな」

そう言って、涙を拭ってから叶が笑った。吹っ切れたような清々しい笑顔で叶が笑った。

「しゅうちゃ、」
「…ホント、ありがとな」

言葉が、続かない。
本当はもっともっと、伝えたいことがあったはずなのに。

「…はなれても、同じチームじゃなくてもさ。廉が野球続けてるって、なんかそれだけで嬉しいんだ」
「…うん」

へへへ、と2人で笑いながら、向き合って。

「修ちゃん」
「ん?」
「あり、がと…だいすき」

にっこり笑って言った。
一番言いたかった言葉。
一番伝えたかった言葉。



「はなれてても、ずっとずっとだいすきだよ」