ケロロが雨具を身に付け、出て行こうとした瞬間、ぜロロが立ち上がった。
「待って、ケロロ君」
タママの傍にしゃがんでいたギロロも顔を上げる。
「いや、隊長。……隊長に何かあると彼等も困る。僕が行くよ」
「ゼロロ」
「僕らはこういう場所でも、ある程度自由が利くから」
ゼロロが属する特殊部隊では、確かにどんな状況下でも行動が可能なように訓練される。
しかしこの星の自然は、既にその予測の範囲を越えているのではないか。
もはや戦場として成り立たない地で、戦場を想定したノウハウが果たして通用するのか。
ギロロはこれまでの慟哭するゼロロの様子を思い起こし、口を挟もうとした。
「ケロロ君は隊長で、ギロロ君には信号弾を打上げてもらわなきゃならない。……だから僕が行く」
ケロロは立ち尽くしたまま、ゼロロの顔を見ていた。
小一時間。
雨音の下、遂にケロロが沈黙を敗った。
「……ゼロロ兵長に、ベース周辺の偵察行動を命ずる、であります」
ケロロの敬礼。そして拝命を宣言するゼロロの、よく通る声。
「言っとくけど無理しないように、でありますよ。我輩、ゼロロの母上にくれぐれも、って頼まれてんだからね」
「……そんな事まで……」
「ゼロロ、身体弱かったからサ」
雨具を身に付けたゼロロの身体をケロロが一瞬、抱擁する。
「……気をつけて行くであります」
頷き、裾を翻すようにゼロロが踵を返した。
例えば、木の葉一枚散らす事がないであろう、俊敏なゼロロの動き。
しなやかで物腰柔らかな青い上品な身体が、この瞬間冷徹なアサシンとなった事を、残された者達は悟っていた。



「ケロン時間で七日……」
沈黙が戻ったテントの中で、ケロロは一人呟く。
「そろそろ…… あと一日、いや……」
それを聞き取った地獄耳のギロロが振り返る。
「何の事だ」
ケロロの返事はない。
何か考え事に没頭し始めたようで、テントの金具をじっと見詰めながらすっかり濡れそぼった床に座っている。
ギロロも今後について考える。
ゼロロは信号弾の事を持ち出した。しかしそれは具体的に救援があってこその話だ。
前提自体が希望的観測に満ちている。
クルルの組み立てた通信機器は、どこまで信号を飛ばしただろうか。

じっとりと濡れた床は、夕刻を過ぎると急激に冷えた。
じめじめと不快な湿度が高いため、体感温度と実測にはかなり差がある。
身体の調節機能がやられ、病原菌やウィルスへの抵抗力が落ちる理屈がそこにある。
病人の横たわる場所だけは段差が付けてあるものの、漏れ、染み出た水がそのシュラフを浸しつつある。
床の水を吸わせるための何かを探そうと立ち上がった時、ギロロは目眩を感じ、すぐ傍にあった木箱に掴まった。
「…………」
先刻からずっと悪寒を感じていた。
身体も重い。

これがもし、タママやクルルと同じ症状なら。
しかし、ギロロは木箱に凭れたまま、呼吸を整える。

―――――俺にはまだ、しなければならない事がある。



外へ出て、改めてその湿度を感じる。
降り続く雨水は容赦なく雨具の隙間から身体を濡らし、身動きする度に吹き出る汗と混じった。
既にベースのある高台に水は迫っている。
あと一日が限界、というところか。
しかし動けない二人を連れて、ベースの移動など可能だろうか。
ゼロロは周囲を見渡す。
近場にはもうテントを移動できそうな場所が見当たらない。

雨水が合流し、濁流となって流れていく地点まで来て、ゼロロはある物を見つけた。
「あれは……」
それはどこのものともつかない、流され、壊れた武器の残骸。
その中にゼロロは見覚えのある銃を見つけた。
手配中のテロリストは、最近政権が変わり、軍事物資が大量に流出した辺境惑星産の有名な銃を携帯しているらしい。
「……生きた命令だったのか」
つい先刻、交した会話が甦る。
上層部はより貪欲に、一石二鳥を目論んでいたと見るのが正しいようだ。

その上流には思いのほか大規模なベースがあったらしく、放置された軍用トラックや、物資が詰め込んであったらしき箱などが、川の流れを塞き止めていた。
その中に別種の色彩を発見し、ゼロロの視線がそこに注がれる。
注意深く近付くと、それは熱帯植物の又に引っかかった遺体群であった。
既に原形をとどめないほど腐敗し、水に削ぎ落とされたそれらは、皆一様に固く縄で結ばれており、縄の先端は木の幹に括り付けられている。
「彼等もまた、同じか……」
この惑星の水。
止む事なく降り続き、全てを腐敗させ、土に返す。
いや、この浸水した土地のどこに土があるというのか。
ゼロロは骨の露出した水死体に、小隊の運命を見て身震いする。

何か役立ちそうなものはないかと木箱を何個か引き上げ、中を確かめるが、殆ど水に流されてしまった火薬原料や、組み立て前の機銃の部品ばかりで、今の小隊に役立ちそうなものは発見できなかった。
おそらく食糧や飲料水は最後の一片一滴まで、あの遺体となった兵士達が飢えた腹に納めたのだろう。

背筋が寒くなるような光景に、ゼロロはその場を立ち去ろうとした。
瞬間、目に入って来たもの。

常人より遠くまで見通せる彼の瞳は、過った光の玉を捉える。
「あれは!」
アサシン兵術がその残像を記録し、再生する。
間違いない。
ケロンスターのマークが光る、友軍の救命艇。
ゼロロの中にベースで待つ戦友達の、疲れ切った表情が浮かび上がる。

救命艇で彼等が向かう先は、宇宙船が水没した降下地点。
まだ船は微弱ながら識別信号を発している筈だ。
そこへ行きさえすれば。
ゼロロは注意深く濁流の脇に伸びた熱帯植物の蔓や枝を伝い、来た道を引き返す。
雨水が滑り、何度も足や腕を取られながら、ゼロロは光の玉を追い、疾走した。



「……!」
発熱の始まった重い頭に、聞き慣れた宇宙船の降下音が響いた気がした。
ギロロはテントの支柱に掴まり、雨音の続く天井を見上げる。
「ケロロ、友軍機だ」
「!」
濡れて水たまりのようになった床から立ち上がろうとしたケロロは、足下を滑らせて尻餅をついた。
「痛ぁっ! もーギロロ、我輩手、伸ばしたでありますよ!」
「すまん。しかし間違いない。あの音は……」
助けを求めたケロロの手を拒否したのは、その掌の熱さを悟られたくなかったからであった。
発病したと知れたら、無理矢理にでもシュラフに押し込められ、枕元で薄気味の悪い泣き言を聞く羽目になる。
少なくとも自分はまだ他の二人と違って、動く事ができるのだ。
「我輩、見てくるから!」
「いや、俺が行く」
自分の聴覚には自信があった。しかし、今回はそれらが発熱による幻聴である可能性についての恐れもあった。
ギロロはまだ生乾きの雨具を羽織ると、テントの外へ出た。

足下がふらつく。
地面に溜った雨水は、すっかりこのベースのある場所に近い位置まで、その舌を伸ばし始めていた。
「……くそ」
この水がここへ到達するまでに、救命艇に発見されなければならない。
外にいたゼロロは既に気付いただろう。
アサシンであるゼロロは、ギロロの何倍もの鋭敏な感覚を持っている。
降り落ちてくる雨を片手で遮り、ギロロは空をふり仰いだ。

射撃のための視力はまだ大丈夫だ。
何でもいい、この位置で救援を待っているという事を知らせる事ができれば。
ベースに運んだ物の中には信号弾になる物もいくつかある。
しかし。
ギロロはひとつ脳裏に過った不安を消せずにいた。

ここには、本当に俺達しかいないのか?
そもそもの目的であったテロリスト発見と殲滅がもし、生きた命令であったら。
この過酷な自然環境に適応できる、敵性宇宙人がもし―――――

ベースには傷病兵二名。
偵察からまだ戻らないゼロロ、そしてケロロ。
まだ動けるとはいえ、発病してしまった俺。

ギロロは考える。
この状態でもし更に敵を呼び込む事になった時、濁流に呑まれ、ベースと運命を共にする以上の結果が目に見えているのではないか。
無気味な悪寒が背筋を這い上がる。
それが熱のせいなのか、それとも脳内のシミュレートの結果によるものなのかはわからない。
分散する意識を無理矢理取り戻そうとするように、ギロロはかぶりを振った。



濁流に沿うように続く、道なき道を弾丸のごとく疾走する青い身体。
速度優先のため雨具は脱ぎ捨て、素肌のまま蔓から枝へと飛び移るように駆け抜ける。
木々を突っ切る間にできた擦り傷が、彼の滑らかな身体に赤い刻印を記す。
しかし、ゼロロは止まる事がない。
今のゼロロには、まるでひとつの機械になるがごとく、自らの感情や痛覚までもを封じるアサシン最後の術が施されている。

痛覚を消すという事は、自身の肉体の限界を自覚できないという事につながる。
故にそれは捨て身の「禁じ手」であった。
しかし、人との関わりを至上のものとするゼロロにとって、惜しむ手段ではない。

ゼロロは戦友のために、雨の中を疾走する。