それは不思議な出会いであった。
まるでケロロが日向家に住み着いたかのように、オルルもまたある男の住処へと落着いた。




浴槽の好きな男だった。
俺は乾性人だから、水に浸かる奴の気が知れない。そう言うとよく笑われた。
彼は飄々と語った。
地球人が海からゆっくりと進化を遂げた事。
胎生の生物に最も理想的なのは、温い水の中だという事。

彼の名はレオ・シラードと言った。

まだ地球人の殆どが宇宙になど目を向けていなかった頃だ。
理論物理学者の彼は当然宇宙を身近に感じていたし、発見されたばかりの理論についてもよく熱心に語っていた。
それでもまだ有人ロケットなど夢のまた夢だったあの時代に、宇宙人の存在など、よく信じてくれたものだと思う。

彼とはすぐに親しくなった。
俺はしかし、地球という星について懐疑的だった。
詰まらない内戦の果てに侵略を許し、ケロン人のものとなった母星。
その脆弱さが自分をこれほど不幸にしたのだと、長く憎悪し続けていた。
それならば同じようにくだらない内戦を続けるこの地球もまた、母星と変わらない。
俺の中にあったのは、そんな冷酷な気持ちだった。

レオがヨーロッパの戦火と迫害を避けて、ハンガリーからアメリカというこの国へと亡命し、核兵器という質の悪い兵器の実用化について大統領に提案した時も、俺は黙って静観していた。
俺がそれに手を貸したか?
貸す筈がない。
俺は神になろうとした。
傍観し、愚かな地球人類が滅びの道を選ぶのを、冷笑するつもりだった。




メモリーボールの中のオルルの過去は、まるで映画のように、克明に記録されている。
ひとつひとつの事象へのオルルの意志の決定、そして伴う感情がリアルに伝わる作りになっていた。

地球へ降り立ち、出会った相手の事。
目先の脅威を恐れ、刹那を生き延びようとする者達の愚かな選択。
この先、この惑星に何が起きるか、オルルの見え過ぎる目には全てが明らかだった。
何故なら。
『乾きの大地』が砂漠の星になった理屈そのものを、この地球は踏襲しようとしていたから。

俺の星の神話にある。
人の始祖となった『兄』。
神の元を離れ、地上人となった『兄』が弛まぬ平和を望み、祈りのために建てた碑は、子孫の愚かな争いによって壊された。
神は怒り、罰として開墾された緑の大地を砂に均した。
『乾きの大地』はこうして生まれた。
これはただの寓話ではない。過去に実際に起きた真実だった。
……つまり、数千万年も前に、優れた文明と栄華を誇った惑星の祖先は一度、滅亡した。
俺達は砂漠という惑星環境に身体を合わせ、進化した乾性種の子孫という事になる。

地球人も同じ道を辿るだろうか。
この豊潤な大地を、自らの争いで砂漠に変えてしまうとしたら。
まるで天秤の両側の分銅の足し引きをするような、審判への思いに支配されていたその頃の俺は、彼等の選択が見たかった。
滅びに向かって突き進むならそれもいい。
そして、自らが進む近未来について危惧する目を持つならば、俺は地球人の慧眼に敬意を表するだろう。
俺の思い入れの天秤は後者へと傾きつつあった。
それはレオというエキセントリックな友人の存在を介して知った、たくさんの地球人達を好きになり始めたからかも知れない。
クルル、お前には俺の矛盾した気持ちがわかるだろうか?

「……地獄を見た奴にしか、本当の天国なんか見えやしねぇ。ジジィの言いたい事はそういう事だな?」
そうだ。
憎悪したかつての故郷にあまりに似通った惑星。
ただ滅びの道へと歩むのが見たいだけならば、オルルは喜んで地球人達に手を貸しただろう。
しかしそれはできなかった。
万に一つ、いや、億に一つでも、自分の冷笑を裏切る展開があればいい。
それはオルルの故郷には叶わなかった希望だ。
もしそれを見る事ができたなら、自身の母星も少しは救われる。
そして自分のこの、怨恨に凝り固まった心も。
オルルはいつしかそう願うようになっていた。

「……それで、オルル殿はそれを見たのでござるな。オルル殿の母星にはなかった道を、地球人が選択しようとしたのを」
ドロロが呟くように言う。
地球人の未来を見据えようとしている彼にも、オルルの気持ちはなぞるようによく理解できた。



ユダヤ人であったシラード達が、あれほど恐れたナチスドイツ。
絶対に先んじられる事のないように、秘密裏に開発しようとした核爆弾。
しかしドイツは降伏し、彼等は開発の意義を失った。

俺はあの頃のマンハッタン計画を傍観していたんだ。
歯がゆい程原始的なでかい爆弾、そして稚拙な原子炉、何か新しい事が起こる度に大騒ぎになったロスアラモスの活気あふれる研究所。
痩せっぽちの所長オッペンハイマー、歩く計算尺フォン・ノイマン、心配性のエドワード・テラー……
地球は推進力に溢れた若い星だった。
だから先へ先へと突き進む事を止められない。
制御できない力を手にする事によって、後でどれ程の後悔に苛まれる事になるか、頭のいい人間が束になって想像もできないでいる。
そんな風に思っていた俺に、レオは言った。
もうこんな凶悪な兵器を作る必要はない。少なくとも人の頭上に使うべきではないと。
俺が聞きたくてたまらなかった地球人からの解答が、そこにあった。

レオの発言を、人道的見地からの発言ではなく、科学者の自己保身だと見る向きもある。
しかし、俺の中でそれら二つは矛盾しない。
前者のみを信じるには、あまりに生身のレオは自分勝手だったし、後者だけを推すほどの卑怯者ではなかった。
人に矛盾を許さない奴は宗教者としては完全だが、よい友にはなれない。
義憤に震えながら保身も同時に思い浮かべる、俺はそんな奴の方がよほど信用できる。

レオ達は大統領への嘆願書を作った。
沢山の科学者の署名を集めて。
しかし全てが遅過ぎた。
動き出した大きな力は、既に止められないところまで来ていた。
俺にはわかっていた。
実験が成功すれば、それは必ず人の頭上で使われる。
それは地球人の災禍の始点であり、決して到達点ではない。
そう気付いた時、長らく傍観者であった俺は、初めて地球人に介入する事を決めた。

そして、最初の核実験はこの場で行われた。




俺が彼等に手を貸した事は一度もない。
俺はただのオブザーバーだ。
彼等は彼等の叡智でそれを作り上げた。
ハンガリー人が宇宙人? 確かに、俺の知る彼等は確かにこの幼い地球において、限りなく宇宙に近い人々だった。
そんな彼等に対し、俺が傍観者であったという事が何の言い訳になる?
俺は彼等を止めなかった。
近い将来、彼等が如何に後悔するか、俺は知りながら黙っていた。
それは罰を受けるべき俺の罪だ。

クルル、俺はいつしか、この星を―――――
まるで母星と同じような道を辿ろうとしているこの大地を、荒れ果てた砂漠にしたくなくなっていたのかも知れない。




1945年7月16日未明。
前日から続いていた嵐は止み、ようやく静寂が戻ってきた。
爆縮型と言われたプルトニウム爆弾がセットされた鉄塔の下、夜明け間近なこの場所にて、オルルは一人、大地に座ってその時を待っていた。

彼は神にはなれなかった。
彼はただ、悔やみ、懺悔した。
弟の居る楽園から逃亡し、地上の過酷な大地の上で、残りの半生を祈りに捧げた『兄』のように。
それならばこの場に碑を建て、この惑星を永遠に見守ろう。
どうせ過酷な実験と改造に耐えてきたぼろぼろの生身は、余命いくばくもない。
彼はそう誓い、自分の全て、自分の半身を、地中深く埋めたケロンからの探査艇へと記録した。

後は爆弾が炸裂する瞬間に、最後の転送システムを作動させればいい。
こうしてオルルの意志は、生きたままこの艇にて眠る事になった。

雨上がり、ざわざわと吹く風は砂漠地帯特有の乾いた肌触りで、彼は防護服を久しぶりに脱いでいる。
こうして感じる空気は、母星である『乾きの大地』と何ら変わりはない。
気がつくとオルルは、長く忘れていた懐かしい歌を口ずさんでいる。
しかし、聞く者は誰もいない。
ガラガラ蛇と蠍が住処とする広大な土地。
実験場から半径数十キロの住民は既に避難を終えていた。
残り少ない静寂の時。
彼は母星に残してきた家族を、裏切った異星の友を、地球で新たな友情を交した兄弟を思い、目を閉じる。

やがてその小さな身体が、千の太陽を思わせる閃光と熱線に貫かれる瞬間まで。




その後起きた事は歴史書が語る通りだ。
メモリーボールだけが艇から離れていたのは、俺の最後の記録を遺すため、そしてグラウンド・ゼロの衝撃そのものをそのボディに味わわせるためだ。
俺の身体は『トリニティ』と共に吹き飛び、膨れ上がる火球の熱に燃え上がった。

メモリーボールとこの艇の役割はそれだけだ。
意義や価値などどこにもない。
俺の個人的な主観があるのみだ。
だから、この世にあるどんなシステムより、偏狭でしかも寛大だとも言える。
パスワードその他は、その男のように悪用を考える異星人、つまり地球人以外にかかったブロックだ。
この星の人間ならば、掘り出すだけでその中味を知る事ができる。
これを解読した後の地球人がどう解釈するかは、彼等に委ねるしかない。

……あれから数十年。
俺はレオやロスアラモスの科学者が数奇な運命を辿るのを見ていた。
終戦後、自分達の作り出したものがどんな結果を齎したかを知って、後悔に苛まれ、転向した者。
水爆開発に反対し、スパイの汚名を着せられて、いちやく英雄から国賊にまで転落した者。
そして新たに出現した仮想敵を恐怖するあまりに、更なる強力な兵器の開発に乗り出した者。
彼等のうちの何人がその後の人生を幸福に生きられたか、あるいは例えようもなく不幸であったか。
俺にはわからない。

異星人の俺は、端から地球人の陣取りや政治には興味がない。
巨大国家の憂いにも、埋蔵された資源の利権にも、存在する全ての陣営に思い入れがない。
今もあちこちで起きている内戦は、その理屈に関心がないだけに、いちいち腹立たしい。
だが、戦争の審判を下す事は俺の役目じゃない。
俺は神ではない。

ただひとつ。
俺が信じた地球の良心を裏切る行為だけは、俺は許さない。
いつか再び人の頭上で核兵器が炸裂する事があるならば―――――
俺はこの惑星を、怒りをもって『乾きの大地』に変えるだろう。
そうするための仕掛けは、この艇に整っている。



「それが『呪い』か」
つい数時間前、オルルと対話を交したギロロが口に出す。
そう、彼は言った。
―――――遺されたのは、俺の精神とこの艇とメモリーボール、そして呪いだ。
オルルの言葉が甦る。

―――――そうだ。俺はこの先またこの場所で眠る。
―――――願うのは永遠の静寂だ。
―――――次に地球が俺を起こす時、それは地球人の自殺の時だ。

オルルはあえて意図的に『自殺』という言葉を選んだらしい。
ドロロはこの長い旅路へクルルをいざなった時、告白した自身の内面の言葉を思い出していた。

 拙者が守りたいと思う地球は、地球人のものであって地球人のものでござらん。
 ……地球人が地球にとって悪しき選択をするならば、拙者、地球人とも戦う覚悟にござる

それもまた不吉でありながら、逆説的な希望を伴う、矛盾した心の現れだった気がする。





この数日の旅が今、行き着く場所へと辿り着き、終焉を迎えていた。
地球、そして『乾きの大地』から再び地球へ。
長く遥かな旅路であった。
ケロロのモバイル機器にガルルからの通信が入る。
通称「出品者」ジララ中佐の囚人護送に、本部から数名が地球へ向かったという事であった。

クルルは声をかけようとしたギロロを制し、まだ「出品者」が施術によって拘束されているシートの前へ進んだ。
「クルル、どうした」
その硬直したままの相手を見下ろしながら、クルルは片手を上げ、その方向に立っていたドロロを促す。
「何でござろう」
ドロロはこの長き旅路において、付き従うと決めた相手との距離をまだ保ち続けている。
その不思議な緊張感は彼等をより知っているギロロに、どこか眩しく映った。
ケロロ他の一同は、奇妙な成りゆきを見守っている。
「……こいつと話がしたいんだ。術を解いてやってくれねぇか?」
「おい、クルル!」
拘束されているとはいえ、未だ油断のならない相手である。
施術を解除するなど、ギロロには正気の沙汰とは思えない。
しかし、クルルは平然と言い放つ。
「心配すんなって。何かあったらこっちの先輩が俺を護ってくれるからヨ」

一同の視線の中、ドロロは「出品者」の前へ進み出る。
「御免」
その手が振り下ろされ、軽い叫びと共に「出品者」の緊張していた四肢が弛緩する。
シートにどさりという重いものが着地するような、そんな音が響いた。


「……どうだ? メモリーボールの中味を知った感想は」
シートにようやく身体を落ち着けた「出品者」は、全身に緊張を強いられた事がよほど苦しかったらしく、肩で息をしていた。
「……理想に燃える麗しい話だ。地球の良心? 審判? 反吐が出る」
思わずクルルを囲むギロロとドロロが歩を進め、その背後からガードする。
「クックックッ、……正直俺もそう思うぜェ」
「……ならばこれ以上何を話す事がある。クルル曹長? 今になって私を裏切った事を後悔しているのか?」
「ハァ? そりゃ何の冗談だ? ……悪ィが俺様は反吐ン中這いずり回るのも嫌いじゃねェドM なんだ。あんた、同じ部署にいて、俺を『尻尾の少佐』とまで知っていながら、何にも解っちゃいねェ」
「出品者」の顔が憎悪に歪む。
ドロロがクルルを制し、その前に出ようとした時―――――
「あんたにもう一度、反吐を吐かせてやるよ。……クックックッ」
クルルの不快な笑い声と共に、ひとつの告白が成される。

「俺が降格の末、閑職に追いやられる事になったのは、軍事国家であるケロンの中央で『Love & Peace & Justice』を実践しようとしたからなんだぜェ」




それはこの場に居る誰もが初めて知る話であった。
一同はあまりの告白に、あんぐりと口を開けている。
「……そりゃまた、大胆すぎるヒネクレ方でありますな、さすがクルル……」
「愛と平和と正義、ですかぁ……」
勿論、勝者の論理ではその三つは軍事国家とも矛盾はしない。
しかしクルルの口ぶりでは、そんな逃げ道が用意された矮小な計画ではなかったのであろう。
軍人になり、出征する事が誉れとされる母星では、それらは異端の思想でしかない。
そして『異端の思想』は、ひとたび机上を離れれば『クーデター』と呼び方が変わる。
「……そんな事を実践すれば、産業、政治、教育と、全てが軍と繋がっている母星の屋台骨が揺らぐぞ。……一体貴様は、何を考えている……」
「俺様を誰だと思ってンだ? 先輩」
それはまるで起きる時間を少し間違えた、というような調子の、笑い混じりの返答だった。

―――――クルル。

「……オルル。よく言ってたよな、あんたと。この世に『Love & Peace & Justice』はあり得るか。 ……俺はあんたが去ってから、何がいけなかったかを随分考えたんだぜ?」

―――――済まなかった。俺はずっと後悔していた。
―――――恩人のお前に一言、謝りたかった。

「俺は成長して、あんたに『いい奴』呼ばわりされた事がトラウマになっちまった。植民地出身のあんたに『いい奴』ぶった事が、どんなにあんたに腹立たしく思われていたか、ガキにゃわかんね」
謝りたかったのはオルルだけではない。
自分もそうだったとクルルは遠回しな言い方で明かそうとする。
そして、彼等の数奇な運命の傍流の中に、実はもう一人が介在していた事を、この場で二人は気付いてしまった。

クルルは再び「出品者」に向き直る。
「……あんた、あのケロン人には過酷な筈の『乾きの大地』で、一度も水を飲まなかったよな」
「だからどうした」
乾燥環境は命に関わる。
だからこそ普段は武器庫として使う次元転送のバンクに、山のようなペットボトルを用意したのだ。
「植民星から知能指数の高い異星人を連れて来るのは、何もオルルが最初じゃないだろ?」
「何が言いたい」
クルルはシートに掛けたまま、自分を凝視する「出品者」の顔を見る。
エメラルドグリーンのケロン人の顔。
紛れもない、出来過ぎたような美しい―――――

「あんたの精神に、オルルが干渉できなかった理由が引っかかったんだ」
「だから、一体何が言いたいと聞いている!」
じわじわと追い込むようなクルルの口調に苛立った「出品者」の声。
それは図星を刺激された故の焦りにも似ていた。
「オルルの身体はこの艇だ。なら、あんたの身体がただの入れ物でもおかしくはねェだろ?」

瞬間、突然シートから飛び起きた「出品者」が、クルルの身体に飛びかかろうとする。
しかし、その反射は長く拘束されていた肉体には過酷であったらしく、いとも容易にドロロに取り押さえられる。
その腕に急所を押さえられながら、それでも「出品者」はその憎悪をむき出しにし、クルルに吠えかかっていた。
「お、お前は一体、……私を、これ以上、侮辱することは」
「……『オルルの願い』とやらを叶えてやりたかったのは、あんただ」
「クルル殿、もうこれ以上は」
ドロロの言葉はクルルの身を案じているというよりは、「出品者」の方に情けをかけているといった風だった。
しかし、制止を振り切るようにクルルは更なる言葉を浴びせかける。
「母星を憎み、自分の身を憐れんで、全てを破滅に導こうとしたのは、オルルじゃない、あんただ」
「やめろ、クルル曹長、やめてくれ!」
「何故なら、あんたは『乾きの大地』から連れて来られた、あの或星出身の異星人だからだ」

クルルの声は静まり返っていたメインブリッジに響き渡った。

小隊を振り回してきたこの長い旅。
その、全ての辻褄が合致した瞬間であった。