たった数時間放り出してあっただけの自分の身体が、どこか他所他所しく感じられる。
普段の目線の高さを確認した時、長い夢を見ていた気がした。
ラボに詰めていた小隊の皆はすっかり眠りこけ、クルルだけが徹夜明けの疲れた顔を覗かせ、ひとこと言った。
「……これから眠らせてもらうぜェ。見送れなくて悪い」
「そうか、休んでくれ」
踵を返そうとした時、先刻まで自分の物だった326のボディが横たわる簡易ベッドが目に入った。
「どした?」
「……いや、みっともない顔をしていると思ってな」
これで完璧に化けたつもりだったのかと思わず苦笑したくなる程、その326の表情は険しく、涙を無理に擦って赤くなった痕も相まってみすぼらしい。
「あんたに似てるぜ」
「……そうだな」
にやりと笑ったクルルが気怠そうに背を向け、片手をひらひらさせながら自室へ引っ込む。
それをぼんやりと見送ってから、ギロロは彼に礼を伝えそびれた事に気付いた。




夜明け。
一夜留守にしたテントには心配そうな猫が待っていた。
「お前にここを残しておいてやりたいが……俺がいた痕跡を残す訳にはいかんのでな」
すり寄ってくる猫を撫で、軽く抱き締める。猫は少し悲し気な調子で鳴いた。
どれほどこの小さな存在が慰めになったかわからない。
誰にも語れなかった胸の内を、この物言わぬ存在に向けて秘かに吐き出した事もある。
別離の前に、この猫に何かしてやりたかった。

「ギロロ殿」
いつの間に傍にいたのか、暗殺兵であるドロロの気配だけは歴戦のギロロにも読めない。
「ドロロか。朝っぱらからどうした?」
ドロロは猫を抱いたままのギロロに微笑み、言った。
「その猫、拙者が命に代えても、見守らせていただくでござる」
「ドロロ」
ギロロの腕の中の猫は、不思議そうに二人を見上げた。
「ギロロ君、僕はこうしてケロロ君達と三人、同じ部隊で再会できて、すごく嬉しかったんだよ。……だから、今はとても寂しい。行かないでほしい」
「寂しいのは俺も同じだ、ゼロロ」
思わず懐かしい名と呼び違え、はっとする。が、ドロロは構わず続ける。
「でも、本当の友達ならきっと、ギロロ君の選んだ道を信じるべきなんだろうね。……だから、僕はギロロ君が大切にしていたあの人や、この猫を見守ることにするよ」
ドロロの澄んだ空の色を映す瞳。幼い頃は人を信じ過ぎる故に、傷つく事も多かった。依然としてドロロがその姿勢を崩さないのは、人の中にある善悪を含めた全てを見据える覚悟があるからかも知れない。
最も任務の邪魔になりそうなドロロの繊細な感性が、逆に強靱さの助けとなっている事が、今のギロロには眩しく映った。




テントを片すと、そこだけ切り抜いたように芝生の色が違っている。
昨日夏美から受け取ったバスケットを手に、日向家の台所を覗くと、そこには早起きした冬樹とタママがコップを手にして立っていた。
「あ、おはよう伍長。何それ?」
「夏美に礼を言っておいてくれ」
テーブルに空のバスケットを起き、何か言い出しそうなタママに目配せする。
「姉ちゃん? いいけど、もうすぐ起きてくるんじゃないかな」
冬樹は欠伸をひとつした後、コップに新しく麦茶を注ぎながら、ギロロの方を見ずに言う。
「あ、でも姉ちゃん、昨日は夢みてうなされてたみたいだから、なかなか起きてこないかも……」
ギロロがウッと言葉に詰まり、冬樹に気付かれないように背を向けるが、冬樹の方はそんな挙動不振にも全く関心がないらしく
「僕もう一回、寝直すからね、おやすみ」
と台所から出て行ってしまった。
後に残されたタママとギロロの間に、何とも言えない気まずい空気が漂う。

「……タママニ等、俺にも氷をくれ」
「ハ、ハイいッ」
タママは冷蔵庫を開くと、ガシャガシャと大きな音を立てて新しいコップに氷を放り込む。
その後ろ姿の、見慣れた尻尾が揺れている。
愛らしいまでの童顔に、こんな子供が本当に前線で戦えるのかと、引き抜いたケロロに食ってかかった事もある。しかしそんな不安は杞憂に過ぎなかった。
「どうぞ」
「すまんな」
タママに渡されたコップを手に、次に配属されてくる第六のメンバーの事を想像し、思わず苦笑した。
「新しい奴には、程程に頼む」
おそらく舐めてかかって非道い目に遭う事だろう。ギロロとて初対面の頃は、このタママがまさかあんな豹変の仕方をするとは思いもしなかった。
「……あのぅ、ギロロ先輩」
ガリガリと氷を噛み砕くギロロにタママが遠慮がちに口を挟む。
しかし、言いたい事を纏めあぐねているのか、その後が続かない。
「何だ、タママ二等」
昨夜の事について何か思う所があるのだろう。しかしこちらから誘導もしかね、ギロロはタママが言葉を見つけるのを待つ事にした。
手の中のコップの氷は汗をかき、溶ける速度を増す。
「……僕、胸が痛いですぅ……」
タママは大きな目を涙に潤ませて、真直ぐにギロロを見据え、一言一言を噛み締めるように言葉にした。

「男は、ほんとに、ツライヨですぅ……」



夏美はこの家の自室で眠り続けている。
初期化は正午過ぎには完了する。
夏の空は昨日の雨が嘘のように晴れ上がっていた。
その真青の空に、ひこうき雲はその尾をどこまでも伸ばし続けている。

日向家、商店街、駅。
タママの住処となっている西澤家、そしてその広大な土地とタワー。
日向兄弟の通う学校。
ドロロと小雪が住む水車小屋。
そして。

ソーサーに入力された地点は全て、忘れ難く馴染んだ場所だった。
もう少しすれば本部より遣わされた小型船が、強力なアンチバリアを伴ってやって来る。
その前にしなければならない事が多すぎる。




「どこへ行っていたでありますか?」
会議室へ引き継ぎのための資料と、官給品の入った箱を運んできたギロロにケロロが言った。
すっかり待ちくたびれたという風で、ケロロの前には林のようにペットボトルが並んでいる。
「やり残した事を全て済ませてきた。俺の認識票と諸々の書類を頼む」
ギロロがそう言うと、ケロロは無表情のまま、手元にあった分厚い茶封筒をボトルの下から引っぱり出し、テーブルの上を滑らせるように投げ渡した。
「何をする」
茶封筒は冷えたボトルの露であちこち濡れ、染みを作っている。
「……何だっていいジャン。だってギロロもう俺の部下じゃねーし、俺見捨ててどっか行っちゃうような冷てー部下いらねーし」
「何言っとるんだ貴様」
「知らねしらねシラネー! 我輩がこの慣れない異星でどんなに心細くてどんなに苦悩してたって、もーギロロには関係ねーし!」
「貴様がいつこの地球で心細くて苦悩した……」
「これから苦悩するのッ! 我輩ギロロいなくなったら苦悩しまくりヨ!? 毎日一筆便箋で切ない胸の内綴って送りつけるヨ!? ひでージャン、俺見捨てて行くのひでージャン!」
既に何を言っているのかわからない。
半ば呆れ、それでもこの場を去ろうという自分を、全力で何とかして引き止めようとしている事だけは、ギロロに痛いほどに伝わった。
「だいたい夏美殿がそんなに好きなら、ちゃんとその手で護ってやればいいんでありマス! ギロロがいなくなったら、我輩夏美殿に何するかわかんないヨ!」
「やれるものならやってみろ」
「やーってやるやってやる、昨日の『外付頭脳人工地球人体(ナカノヒトナドイナイ)』使って、我輩夏美殿コマしちゃうもんね!」
「そんな事をしてみろ、どこからでも俺が貴様を吹っ飛ばしてやるからそう思え」
「だーかーらー! なんでそんな遠くから監視するの、不合理ジャン! 監視するならここにいればいいジャン! ギロロバカ? 何でそんな回りくどい事すんの!」
「バカは余計だ、ボケ」
「バカじゃん! バーカ、バーカ、赤ダルマ!」
「何をぅ! ボケの緑提灯がっ!」

昨夕杞憂していた展開が、今目の前で起こっている。
しかし、ギロロはもう逸らす事はやめた。
クルルが言うように、素直に腹の内を吐き出す勇気が今必要なのだ。
ケロロが投げた空のペットボトルが飛んで来て、間抜けな音を立てて側頭部に当たる。
「貴様ら寝食共にした戦友に、迷惑をかけられんという俺の気持ちが、何故わからん!」
「ギロロがいない方が迷惑だって我輩の気持ちが、何でわからんの!」
更にもう一個。
避ける事はできる。しかしギロロは敢えてそれらの直撃を受けようと決めた。
「俺は誰より地球侵略のために誠心誠意努力していた筈だった。その俺が実は地球人のための最大の抑止力となっていた事に気付いた時の、その屈辱がわかるか!」
「地球人のための抑止力になった位で『くつじょく』ぅ? 我輩なんか捕虜だもんネ! 屈辱メーターで言えばもう振り切れ確実、キングオヴ屈辱! 俺勝ったね、俺完全勝利!」
「自慢になるかっ!」
尚もケロロはペットボトル投げのモーションに入る。
「このままここにいれば、俺はいつか本国を裏切るかも知れんのだ。そんな大罪を犯すかも知れん、俺の尻ぬぐいが貴様にできるのか!?」
「あーもう、そんな事はやってから考えればいいって! みんなでどうすりゃいいか考えればいーじゃん!」
「だからそれが許せんと」
「許すのは我輩であってギロロじゃねーもん!」
ガコッ! とこれまで以上に大きな音がした。
ギロロは目を閉じ、それが額で炸裂するのを甘んじて受ける。
もうケロロの手持ちのペットボトルはない。しかし、素手で来るなら殴られるつもりだった。
時間はまだもう少しある。とことんつき合ってやる。
自分は、そうされるだけの裏切りを犯すのだから。

「ギロロにきのう言ったじゃんか……」
「何をだ」
「何をって! ……我輩命令したでありますよ。……遂行すべき命令を忘れる様では、もう離脱しかないってことで、ギロロの言う通り?」
昨日。
命令。
ギロロはゆっくりと思い起こす。
夏美を前に躊躇する心に、ひとつの決心を抱かせてくれた言葉について。

 ギロロ伍長、夏美殿は地球防衛戦線の要であります。この機に乗じて鉄壁の要塞を陥落させ、平和的地球侵略を推し進めるであります。キーワードはラヴ&ピースであります。
 作戦名「"Saving all my love for you" project」これは我が小隊にとって、最も大きな戦功を齎す一大プロジェクトであり、作戦遂行中並びに終了後の離脱は厳罰。……許されないであります。
 既に作戦は本日零時付で発動中、遂行には全力で挺身すべし。健闘を祈る、であります。
 
「何も弁解する事がないならもう行くであります。……我輩、何だかんだタテマエ言ったけど、ギロロがいなくなるのが寂しいだけだし」
弁解しないのではない。
忘れていた訳でもない。
むしろ、どれほどあの言葉が嬉しく、心強かったか。
「すまん、ケロロ。……上官命令を無視する俺は、軍人失格だな」
「もう失格しまくってんじゃん」
「厳罰、何でも受ける」
そう言った瞬間、厳罰としてここに留まれと返答される事を想像し、ギロロはしまったと思った。
しかし、ケロロは背を向けたまま、言い放つ。
「今、受けたよネ? ペットボトル直撃の刑。……我輩、ギロロが1本でも避けたら絶対行かせないつもりだったのに……」
「……」
「ギロロがいないと我輩、どんどん低きに流れてっちゃいそうであります。ま、身体に気をつけてお互い頑張るでありますよ。……以上、行ってよし、ってことで。……ジャネ」


ギロロの足下に散乱するペットボトルがひとつ、大きな音を立てて倒れた。
黙ってしまった二人の間を、いつまでも残響だけが漂い、そこに聞き慣れない重低音が重なる。
基地を振動させる程の何か強力な磁場のような、それでいて肌触りだけは懐かしい大気の震え。
ケロロが見上げる先は、灰色の天井。しかしその視線の一直線上には、ケロン軍の小型艇が居る。
強力なアンチバリアで姿を隠してはいるが、送られてくる識別信号がその存在を強固に主張する。

おそらくこの場に居る小隊員全員がそれを感じ取っていた。
しかし、彼等はあえて気付かぬふりをしてやり過ごそうとしている。
ラボのどん詰まりの押し入れで、丸く背を向けて横になっているクルル。
山のようなお菓子とジュースに、復讐するかのように挑みかかるタママ。
自分の内側と中側を全て空にするべく座禅を組み、目を閉じるドロロ。
そして、ケロロは背を向けたまま、石のように固まって動かない。
ギロロはその後ろ姿に敬礼し、踵を返した。




真っ青だった上空に一点の影がある。
ソーサーを浮かべ、背中に荷物を背負うと、ギロロは足下にすり寄ってくる猫を一度抱き上げ、木影へ下ろした。
昨夜忍び込むように足を踏み入れた夏美の部屋は、日向家の二階にある。
あと数十分もすれば、夏美も日向弟も、自分に関わった者達はきれいに初期化されるだろう。
朝一番に、半ば強襲するように訪ねた326の驚いた顔が過る。

 男の約束だ
 でも、どうして
 俺はもうすぐ、ここからいなくなる
 
それは文字通り「有無を言わさぬ」問答であった。
しかし、おそらく326も理解している。
男としての自分が、何を託されたかを。

ソーサーは軽く屋根を越え、西澤タワーをも後に上昇する。
右往左往した駅前を南北に伸びる道。
夏美の運動会に飛び入りした、今はがらんとした校庭。
たくさんの花を植えた街そのもの。
視野はどんどん広がり、逆に肉眼で見えるひとつひとつは塵のように小さく四散する。
その中に存在するのは、自分が捨ててきた過去。

 ケロロ、クルル、タママ、ドロロ。
 夏美。
 
この地に降り立った日には、こんな別離になる事を予想すらしなかった。
 
 夏美。