夏の長い一日が終わろうとしている。
雨は辛うじて上がり、雲の間から半分になった月が見えた。
夕方ケロロから渡された白い封筒の中には、おそらく兄ガルルの奔走の結果がある。
非公式すれすれの辞令である事は、その慌てて作成されたかの様な書類の手書き文字でわかる。印の朱肉が乾かぬ内に封をされたらしく、書面のあちこちが血のように赤く染まっていた。
贅沢は言わん、俺の最初で最後の我侭を聞いてくれ。
それだけの短い手紙を、果たして厳しい兄はどう受け取っただろうか。
見知らぬ戦場と行きずりの戦友。
命令が下れば砂漠の惑星であれ、泥濘の中であれ、身体ひとつで渡り歩いて来た。
今度も同じ、元の俺に戻るだけ。
そう何度も言い聞かせるように言葉にしなければ、後ろ髪を引かれるような未練を、いつまで経っても整理できそうにない。
明日、俺はこの場所から去る。
夏美の中の記憶をきれいさっぱり初期化して―――――
「クルル、いるでありますか?」
ケロロがようやくショックから落ちつき、現状を確認すべくラボを訪ねたのはその頃の事であった。
何が起きても動揺しない。ケロロは今、そういうクルルを必要としている。
「クルル〜! くるるそーちょー!」
何度呼んでも返事がない。こういう時のクルルは自分の研究に没頭していて、外部からのコンタクトを全く遮断してしまう。ひどい時には数日間手元に置いた携帯食すら手つかずで、不眠不休でキーボードを叩き続ける。ヘッドフォンには轟音のハードコアパンクとトランステクノ。騒音に近い音の洪水の中、クルルは自分の世界で泳ぎ続ける。
いつか気付かれぬままラボで干からびているのではないかと毒舌を吐いたのは、クルルと犬猿の仲とされるギロロであった事を思い出す。
「クルル〜、出てきてヨ〜。これ以上我輩を悲しませるの、ナシっすよ〜!」
クルルの集中を乱す事など、おそらくケロロにしか思い付けない暴挙である。
「親友に見放されてこぉんなに傷付いた我輩を、クルルまで見捨てるでありますかぁ〜!」
だんだんだん、と連打されたドアは、まるで蝶番が外れるように力なく内側へ開いた。
「たった今、見捨てたくなっちまったなぁ〜、クックックッ……」
これまでの経緯を語り、小隊の危機として締めくくるケロロは、次第に心が平静を取り戻していくのを感じていた。それに従い、それまでクルルが熱心に嵩じていた、何か不審な研究の臭いが鼻をつくようになる。
「話は聞いたが、俺には何にも出来ねえぜェ」
「えー、冷たいじゃん!」
「おっさんの取り柄つったら端迷惑なやる気だけだろぉ? それが無くなったってんならどうしようもねぇなぁ。クーックックックッ」
面倒そうにイスの背に凭れ、大きな音でミネラルウォーターを啜る。
没頭中に邪魔が入った事で、クルルは明らかに機嫌が悪い。
「心配すんなよ、隊長。ガンプラだの何だのの告げ口なんか。これまでがこれまでなんだ、処分があったってココ以上の閑職へ追いやられる事ぁねェだろ? クックックッ……」
「いやむしろ閑職なら望むところであります! 我輩強制労働とか更正施設とかそういうトコがイヤ……って、何か話ズレてない!?」
その瞬間、クルルの目の前にあったモニターのひとつがbeep音を鳴らした。
モニターを身体で隠すように背にしたまま、肘ひとつを使いリターンキーを押すクルルの不自然な動き。
ケロロはさっきまで感じていた不審を確信に変える。
「さっきから何してるでありますか!?」
画面に流れた真っ赤な「"Saving all my love for you" project」の文字。
ケロロはそれを見逃さない。
「出来たぜ、先輩」
既に夜も更けて寝入り始めた矢先であった。
テントに入って来たクルルの声が、朧げな夢からギロロを現へ引き戻す。
夢の中も現実の延長であったらしく、夏美は寂し気な表情をしていた。
「出来た? ……何がだ」
起き上がったギロロの質問を無視し、クルルはあちこちを見回す。
「へぇ、気の早い事だな。もうきれいに片付けてんのかい?」
「ここに用はない筈だ。何しに来た」
梱包された箱を二、三吟味し、ほいほいと積み上げるクルルは振り返りもしない。
「これと、これと、クックックッ、なかなか面白ぇモン持ってたんだな、おっさん」
「勝手に触るな!」
尚もあちこちに手を出そうとする傍若無人な黄色い背中に、ギロロが怒鳴り付ける。
ようやく面倒臭そうに振り返り、積み上げた箱にもたれるように手をかけ、クルルが笑った。
「礼はこれだけでいいぜェ。……俺としちゃ安くしといてやったつもりなんだがなぁ、クーックックックッ」
昼間訪ねた時に聞いた「無理難題」という言葉。それこそがクルル自身を刺激したらしい。
ギロロは信じられない思いでラボにいた。
「最短記録、作っちまったなぁ〜」
相変わらずこのラボではクルルは一国を支配する王そのもので、椅子に座ったまま君臨する。
訪問者はただ木偶の坊のように突っ立ったまま、うやうやしく託宣を受け入れるしかない。
ここへ来るのが億劫だった理由が、やっとわかった気がした。
「……大丈夫、なのか?」
「さぁな。時間ねぇんだろぉ? ただし、先輩の希望とは若干違うかもな、クックックッ」
「何でもいい、説明しろ」
「偉そうだねぇ、先輩。……まぁもう会う事もないだろうから、今日は我慢してやるけどなぁ」
そう言われて儀礼に厳格な軍人気質のギロロはぐっと詰まる。
「あんたの御希望は326の意識下に日向夏美への好意を植え付ける……だったけどなぁ、残念ながら326とオレは純粋にギブ&テイクで成り立った同盟関係なもんでなぁ」
こうして具体的に言葉に翻訳されて初めて、ギロロは碌でもない相手にとんでもない依頼をした事を思う。
「ちょいと違う方法を考えてみたんだ。……あんた自身がやるといいぜェ」
しかし、後悔している時間などない。
夏美を喜ばせる為なら、俺はなんだってする
「実験する時間もねぇからよ、失敗しても悪く思うなよぉ」
お馴染みの万能リモコンがクルルの手の中にある。
もう片方の手が研究室の片隅を指し示し、ギロロを促した。
「その真ん中に立つといいぜェ」
クルルが何を始めようとしているか、ギロロには解らない。しかし、もう乗るしかない。
こいつはこれまでもそれなりの物を作って、色々と問題を起こしつつも俺達を救って来た。
「ここでいいのか? ……よし、いいぞ」
何度も使い回した施設の、クルルメイドの証である渦マークの中心に立ち、ギロロは大声で宣言した。
脳裏にあるのは昼間の、涙を見せまいとする夏美の顔。
あれを満面の笑みに塗り替えるための、俺の最後のMission。
「じゃあなおっさん、地球での最後のお勤めだ。Good Luck! 今までごくろーさん」
クルルの言葉は最後まで聞きとる事ができなかった。
視力の許容量を越える光に包まれ、暫しギロロは意識を失った。
暗闇の中で夏美は目を開ける。
夕方開けたカーテンはそのままになっており、小雨が吹き込んだ痕があった。 数時間前にシャワーを浴びた後、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
時計を見ると既に針は午前を指しており、溜息をついて再びベッドに腰を下ろした。
カレンダーには大きな印がついたまま。昨日までは何度もそれを確認して、幸福な夢を見た筈だった。
326先輩が誘ってくれた、初めてのデートの日。
「夏美ちゃんもどう?」
そう言って手渡された遊園地のチケットは、特別な人間しか手にすることのできない、高価なプラチナチケットのように見えた。
でも、そんなの私の独り相撲でしかなかった。
時間を戻したい。昨日までの、幸せだった私に戻りたい。
早朝眠い目を擦りながら作ったランチを抱え、待ち合わせた公園に行き、326を待ちながら胸高鳴らせた。
何もかもが夢だったなら、それでいい。
しかし、足下に脱ぎ捨てられたままの服が、昼間あった事が夢でなかった事を物語っている。
今日だけは、元気になれそうにない
胸が痛い
ベッドに倒れ込み目を閉じると、押えきれない涙が溢れる。
気丈に閉じた唇からは嗚咽が漏れ、初めて夏美は声を出して泣いた。
『ナビゲーションシステム、オン』
『聞こえてるかい? どぞ』
『き、聞こえる』
『では、目標地点に突入ヨロシク〜ックックックッ』
月は再び雲に呑まれる。
静寂が支配する暗黒の夜。
闇の中で夏美は不意に何者かの気配を感じ、くしゃくしゃになった顔を上げる。
冬樹? ママ? それとも……
開け放したままの窓にかかったカーテンが波打つ。そのふわりと膨らんだ中に人影が見えた。
「泥棒?」
こんな時に。
正直、今日だけはそういうトラブルに遭遇したくなかったのに。
ただ傷心の乙女として泣き続けていたかったのに。
しかし、夏美の中にある戦闘モードスイッチは、本人の意志に関係なくほぼ反射的に入ってしまう。
これもあの、ボケガエル達のせい。
326先輩を忘れたくても、あいつらがいる限りきっと無理。
「そこかぁ!」
ひらりと飛び上がり、人影に向かって強烈な回し蹴りを繰り出す。
八つ当たりにも近い怒りに任せて。
「待……!」
ヒットする直前、夏美の中で強力な抑止力が働いた。
見覚えのあるシルエット。
そしてそれを思い出す事は、心の苦痛を伴う事。
振り上げた脚先は弧を描き、目前で止められる。
既に懐かしい程に恋しい、326の腕で。
『おいおい、そりゃ戦闘用スーツじゃねぇんだぜェ』
『わ、わかっている』
「326先輩!?」
夏美は蹌踉けながら自分の部屋に佇む、326の姿を確認する。
バランスを崩し、ベッドに倒れ込もうとする夏美の身体を、長い腕が受け、その胸へと抱きとめた。