7・エルロンドの会議

 

 サムとフロドは庭から大勢のエルフやドワーフや人間が裂け谷へ来るのが見えました。中つ国中から指輪の行方を決定するために勇士達が集められました。その中には闇の森の王子レゴラス、モリアの斧の使い手ギムリ、ゴンドールの執政家の長男ボロミアもいました。
「こりゃ何の騒ぎですだ?フロドの旦那。」
サムが聞きました。
「明日、あの指輪について会議が開かれるそうだよ。」
フロドが答えました。フロドもその会議に出席することが決まっていましたが、サムは呼ばれていませんでした。
「そうですだか。」
サムはそう言いながら明日の事を考えていました。
「フロドの旦那が出席なさるっちゅうことはおらも聞かねばならんっちゅうこった。旦那は昨日から浮かない顔をしてなさる。その原因の行方が明日の会議とやらで決まるんならなおさらだ。お前はエルロンドの旦那にもガンダルフの旦那にも見つからずにこっそり旦那方のお話を聞けるところにいられるか?サムワイズ・ギャムジー。いられるとも。おらこうみえてもホビットだ。野のうさぎにだって気がつかれることはあるめえよ。」
そう考えてサムは小さく決意を固めました。

 裂け谷で過ごす短い時間、サムはフロドの部屋の隣に綺麗なサムだけの部屋を与えられました。フロドの部屋よりは小さかったのですが、それでもサムには十分すぎるくらい広い部屋なのでした。天井の梁や椅子などの調度品には細かく美しい細工が施してあり、ベッドのかけ布には見たこともないような美しい刺繍が広がっていました。絹のそれはとてもなめらかで、サムは自分の泥くささがここの美しさにあわないと思って何ともいえない気持ちでいました。夜になっても裂け谷はほのかに明るく、エルフの星たちが輝いていました。それを見ながらまだ寝られずにいたサムはため息をつきました。
「おらはここにいていいだか?あんまりにも何もかもがきれいでおらみてえなちっちぇえホビットなぞ縮こまってなくなっちまいそうだ。だがフロドの旦那はそうじゃねえ。もちろんフロドの旦那はホビットにしちゃあちょいと細すぎる。そういうことでなくてよ、フロドの旦那は白くてその目なんかも透き通っていて、おらときどき吸い込まれそうになるだ。旦那はエルフに似てなさる。それにエルフみたいに賢いのさ、お前と違ってな、サムワイズ・ギャムジー。そういやフロドの旦那はどうしてなさるか。昼間の様子じゃあ、ずいぶんと何かを考え込んでるっておらにも分かっただよ。さっきお部屋に戻られる時も浮かないお顔だった。そんなで安らかに眠りなされるはずがねえ。きっとまだ起きてらっしゃる。今日でもしかするとここともおさらばかもしんねえ。そんな夜に、旦那にあんなお顔をさせたままでおらが寝ていいはずがねえ。」
こう思ったサムは、そっと自分の部屋を抜け出してフロドの部屋に行くことにしました。ガンダルフはその様子を見て知っていたのですが、その方がフロドのためだろうと思って何も言わないでやりました。ガンダルフは昼間のエルロンドの言葉が耳に残っていました。このままでは傷を負ったフロドをもう一度さらにつらい旅に連れ出さなくてはならない予感がしていました。しかもそれがどんな結末になるかも分からないような旅にです。その時にはサムがフロドの支えになるでしょう。誰が止めてもきっとあの忠実なサムは命尽きるまでフロドについて行くと言うでしょう。ガンダルフはサムを悲しそうに眉を寄せて見守っていました。

「ごめんなせえまし、フロドの旦那。」
サムはフロドが自分の考えに反して眠っている事を考えて小声でそっとそう言いました。部屋の中はほの暗く、ひとの動く気配は感じられませんでした。サムがフロドと話すのを諦めて帰ろうとした時です。サムは突然後ろから腕をつかまれました。
「わあ!」
と言ってびっくりして振り返るとそこにはフロドが不思議な目をして立っていました。
「フロドの旦那!びっくりさせないでくだせえよ!おら心臓が止まっちまうかと思いましただ。」
サムはそう言って目をぱちくりさせました。それを見てフロドは少し笑ったようでした。
「サムや、わたしと話しをしてくれるのだろう?」
フロドはそう言ってサムを部屋の中に招き入れました。フロドとサムは窓辺に腰掛けてゆったりと裂け谷に色とりどりの葉が舞い落ちるのを黙って見ていました。その様子は本当に美しく、いつまで見ていても飽きないほどでした。サムはまたほうっとためいきをつきました。
「本当に、きれいですだ。フロドの旦那。」
サムは窓の外を見ながら思わずそう言いました。
「そうだね。本当にきれいだ。」
フロドはそう言いましたが、サムのほうをそっと見ているようでした。フロドはエルフたちのこの裂け谷を美しいと思っていましたが、今はなぜかサムの心の素朴さがそれ以上にきれいだと思えるのでした。
 

サムはふとその視線に気がついて少しどぎまぎしました。
「旦那、おらフロドの旦那にどこまでもついて行きますだよ。」
サムが慌ててそう言いました。フロドは急に険しい顔になり、返事をしませんでした。
「フロドの旦那が何を昼間からお考えなのか、おらには分かりませんだ。ですがおらは明日の事を考えてましただ。なんだかおらは旦那がもっともっと遠いところへ旅立つように思いましただ。だがそれもおらを、このサムワイズ・ギャムジーを置いていくことはまかりならねえと、旦那もお分かりでしょう?」
フロドは心から驚きました。まるで自分の心がサムにすっかり読まれているような気がしました。フロドは確かにガンダルフに言われたとおり、この場所に指輪を運んできました。しかしフロドはまた安堵感とはかけ離れたものをずっと感じていました。フロドにはガンダルフやヌメノールの人間のように先を見通す力はありません。それでもフロドには自分の運命がまだこの先に大きく聳え立って待っていることが分かっていました。明日の会議がどんなものであるにしろ、フロドの道はもはや敷かれているように感じていました。フロドはその道を歩くしかないと分かっていました。しかしとても一人では行けないと、そう感じてもいたのです。
「わたしは弱いただのホビットだ。」
フロドはサムから視線をはずしてそう呟きました。
「だがわたしがやりとげなければならないことは分かっている。たとえそれが本当に孤独な道でも、わたしはもう前に進むしかないのだよ。」
「そんなこと!」
サムが突然大きな声をあげて立ち上がりました。びっくりしてフロドはまたサムを見ました。
「そんなことねえです、フロドの旦那。」
サムはもう一度静かに言いました。
「孤独っちゅう言葉をそう簡単に自分のことに使わねえでくだせえまし。旦那は道があるとおっしゃいましただが、その道もおらやフロドの旦那やガンダルフの旦那にさえ終わりは見えてねえとおらはそう思いますだ。もしかしたらその道っちゅうやつは途中で考えもしない方へ行っちまうかもしれませんだ。良い方へも行くかも分からねえんです。それに、おらは旦那が一人でその道を歩く姿はとても見ていられねえですだ。その上おらには旦那のそのお側に歩くおらも見えます。旦那のお世話をするサムもいなくて旦那はどこへ行かれるおつもりなんです?」
サムの口調は穏やかでしたが、フロドはサムから色々な事が伝わってきました。自分の道に自分以外の誰かも、それもサムが歩いている事をフロドは不意に見えたような気がしました。それに他にも誰かが歩いているのが見えたように思いました。フロドは一人ではありませんでした。
 

 黙ってしまった主人の答えを聞こうと、サムは窓の外に視線を放ったフロドを見ました。するとどうでしょう。フロドの目にはうっすらと涙が浮かんでいました。ただどこを見つめているのかも分からない、ただ遠くを見ているフロドの目から一筋の涙が零れ落ちました。エルフの星と月の光がそのしずくにあたって音をたてたように思えました。暗い夜空よりずっと深く透き通った青の瞳から、とどまることなく次々と宝石のような涙があふれていました。フロドは声を出さずにそっと泣いていました。ただ涙だけが頬をゆっくり伝って窓辺に小さな音を立てて落ちました。幸せで、幸せで涙が止まりませんでした。
「フロドの旦那・・・」
サムはそう言ってフロドの頭をそっと抱いてやりました。フロドはそのままサムに身体を預けて静かに泣きました。サムの服はホビット庄の庭のにおいがしました。不意にフロドは胸が締め付けられるような苦しさに襲われました。懐かしさとサムの優しさと村への愛が一度になってフロドの胸に押し寄せてきました。
「旦那、そんなに泣かないでくだせえ。」
サムはさっきよりさらに静かにそうフロドの耳元でささやきました。
「おらがおりますから、ずっとお側に。」
サムはそれだけ言って、自分も泣き出しそうになっていることに気がつきました。綺麗なしずくでサムの服に小さな染みができました。それに吸い込まれるように、フロドの涙はいつしか止まっていました。静かできれいな夜でした。遠くで滝の音がしています。サムは朝までそうやってフロドを子供をあやすように抱きかかえていてやりました。
 

 翌日エルロンドの会議が開かれました。サムは思惑どうり、フロドの席の後ろのしげみにそっと身を隠すことができました。フロドは不安げな面持ちで、自分にはそぐわない高くて大きな椅子に腰掛けていました。隣にはガンダルフが厳しい表情で座っていました。
「指輪をここへ、フロド。」
エルロンドがそう言って美しい石でできた机をさしました。静寂が辺りを包んでいます。フロドは立ち上がって指輪を置こうとしました。しかしその直前になってフロドはこの指輪を手放したくなくてたまらなくなっていました。このままポケットへもう一度しまいこんでしまいたいと思いました。しかしフロドはそっと指輪を置くことができました。その小ささからはとても想像できないような重いものを置いたような気がしました。それからずっとフロドは黙っていました。ボロミアとレゴラスが言い争っても何も言いません。アラゴルンがイシルドゥアの末裔であると聞いても驚いて目を見開いただけでした。指輪から呼び声がします。その声はフロドの頭の中に響きわたり、フロドは眉をしかめました。ちらっとガンダルフがフロドの様子を見たことにも気がつきませんでした。指輪の行く末についてエルフとドワーフと人間はそれぞれの意見をぶつけ合いましたが、フロドはただ指輪を見つめていました。皆が席を立ち上がって口論になると、フロドには指輪が燃えているように感じました。それは紛れもなくあの指輪の王サウロンの姿と声でした。フロドは割れるように痛い頭を抱えてその声を振り払うように言いました。声はかすれていました。
「わたしが持って行きます。」
フロドの小さな身体は皆の目にとまりませんでした。かすれた声は大きな声にかき消されました。
「わたしがそれを持ってゆきます!」
もう一度フロドは叫びました。
 

ガンダルフがはっとフロドを見ました。その髪の毛やらひげやら眉毛やらに沈んだ目は悲しそうでした。こうなる事をガンダルフは半ば予想していましたし、それを恐れてもいました。再び静寂が訪れました。
「わたしがそれをモルドールへ持って行きます。道は・・・知りませんが。」
周りにいたものはみな驚いてフロドをみました。エルロンドが射すような瞳でじっとフロドを見ました。それでもフロドはその視線に耐えました。しばらくの静寂がありました。するとガンダルフがため息をつく音が聞こえました。この心優しい魔法使いは決意を固めたようでした。どっちみちもう後戻りはできません。
「わしはあんたを助けられるだろうよ。」
ガンダルフはそう言ってフロドの後ろにそっと立ちました。次にアラゴルンがフロドの前にひざまずきました。
「命ある限りあなたを守ろう、この剣で。」
その姿はひざまずいているにもかかわらずとても高貴な姿に見えました。
「それではわたしはこの弓で。」
もう微笑を浮かべてさえいるレゴラスがそう言って加わりました。
「ならばわたしはこの斧で。」
急いでギムリもそう言いました。その後に続いたのは難しい顔をしたボロミアでした。
「小さい人よ。あなたが我ら全種族の運命を握るものを運ぶと言うのですね。それが会議の決定ならば・・・、ゴンドールはそれに従う。」
すると耐え切れなくなったかのようにサムがフロドの席の背後から飛び出してきました。
「ここにいますだ!おらはここにいますだよ!フロドの旦那はおらをおいてどこへも行かれやしません!」
それを見てガンダルフは微笑を浮かべました。エルロンドさえ少し微笑みサムのほうへ向きなおりました。
「サム、お前とフロドを引き離しておく事はできなさそうだ。たとえかれだけが会議に出席を求められ、お前はそうでない場合でさえ、できない相談のようだから。少なくともお前をフロドと一緒に行かせよう。」
サムはフロドの横に陣取り、胸を張りましたが顔を赤らめてフロドを見ました。驚いた事に、メリーとピピンまでその場に飛び出してきました。これで旅の仲間がそろいました。9人の指輪の幽鬼に対して9人のさまざまな種族の旅立ちでした。

「南へ」へ続く。